kuzukiria_blog(文学的)

読書とか、いろいろなお勉強(byウィキペディア)とか、文章(文学、芸術、哲学)とか・・・


2017-06

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『プルースト評論選1』④~「文学と批評をめぐる覚え書」&『失われた時を求めて』10&ケーキのこと

この本のメモのつづきー

プルースト評論選〈1〉文学篇 (ちくま文庫) プルースト評論選〈1〉文学篇 (ちくま文庫)
マルセル プルースト (2002/10)
筑摩書房

この商品の詳細を見る



プルースト評論選1』①
 http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-11.html
プルースト評論選1』②
 http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-17.html
プルースト評論選1』③
 http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-26.html というわけで傍線をひいたところを抜き出してみます

プルースト評論選1』
「文学と批評をめぐる覚え書」

p192

こうして、ぼろ屑のようになった私のなかで、ひとりの少年が遊び戯れることになるのだが、この少年は別に何も食べなくていいのだ。ある観念を発見し、目のあたりに見る歓びだけで、十分、栄養が取れるからである。少年が観念を創り出し、観念が少年を創り出す。


p194
彼は、「普遍」によってしか生きられない。「普遍」こそが彼に生気を吹きこみ、養分を与えるのであって、「個別」のなかでは瞬時にして死ぬのである。

彼を措いて、私の書物を書きあげてくれる者はいない。さらに言えば、その書物は、美において優るものとなるだろう。
 彼は間歇的な存在だ。彼は……

二つの別々の印象のあいだの、こうした偶然の一致は、なぜ私たちに、現実を回復させてくれるのだろう。おそらくそうしたときは、現実が、度忘れしている部分まで含めて蘇るからなのだ。理屈で押そうとしたり、なんとか思い出そうと務めたりする場合、私たちは何かを付け加えるか、除き去るかしてしまうのである。

p195
すべて類似のものが、呼び交わし溶けあっている断章。

p201

なぜなら、万人のために書く方法はただひとつしかなく、それがつまり、誰のことも考えずに、自分のなかの、深く、かつ本質的なもののために書くことなのだ。

p202

なぜなら、ある書物のなかに精神が存在するのを示す道はただひとつ、その書物を産み出したのが精神だと証すことにしかなく、精神が主題になっているなどというのは理由にならないからだ。

p203
結局の私の哲学は、本物の哲学ならみんなそうだと思うのだが、万事、あるがままを良しとして、あるがままの状態を復元させることに尽きる。

芸術家が持つべき良識、ある作品の精神性を測る唯一の基準、それは才能だ。

忘れるべからず──才能こそが独創性を測る基準であり、独創性が誠実さを測る基準、そして楽しみ(書いている当人にとっての楽しみ)こそ、おそらく、才能の真正さを測る基準なのである。

p209

才能に恵まれれば、私たちにも書けるかもしれぬ美しい作品というものがある。

p210

才能とは記憶力の一種であって、これがあれば、あの正体不明の曲をわが身にちかぢかと引き寄せ、明らかに聞き取り、書きとどめ、再生し、歌うことができるはずである。だが、いずれは、才能も記憶も衰弱し、心の筋肉がゆるんで、もはや、外面的なものにせよ内面的なものにせよ、思い出を引き寄せるだけの力がない、そういう年齢がやってくる。時として、鍛錬が足りないせいで、また、はやばやと自己満足に陥ってしまうせいで、そんな年齢が生涯にわたって続くことがある。そうなれば、誰ひとりとして、本人さえもが、捕らえがたくも甘美なリズムでまといついてきたその唄の節を、永久に知ることなく過ぎてしまうのである。


ヽ(´ー`)ノ



メモ抜粋だけでもなんなので感想とかおまけー

今まで自分で収録した記事を読んで
引用のところ以外読み直す気がおきなかったりするから
蛇足だとは思うにしろー

同じ本を何度も読む方のが好き
というか、何度読んでも、もうわかってる、ということは全然ないし

一番最後のところ、心に筋肉がゆるんで──とか
これはしんどいなーとか
年齢というか、心の筋肉的年齢かなー

最近の出来事

寝る前に思いつく(このタイミングでは名案がしばしば出てくる)ことを
書き留めるまではしたけれど(それをしないと確実に忘れて困る)
それを、パソコンのほうに収録して続きを考えようと思いながら
もう2日たってて、そのメモの切れ端(やぶった)が目の前にある、、、、

まあ、プルーストを書写してるほうが自分のメモを書写するより
精神的に有益といえばそうだろうけど
メモも収録しよう・・・

ついでに今日の出来事

いつも、新しいハードウェア検出、とか(何もいれてない)でてきてたけど
無視してキャンセルしてたんだけど
今朝は寝ぼけていたのか、なんとなくドライバをいれるみたいなのをおしたら
いきなり、一瞬青い画面になって(英語つき)落ちて、また再起動
みたいなのを繰り返すように・・・

壊れたかと思ってとても精神衛生に悪かったけど
セーフモードでデータ移動とかしたあと(1時間以上かかった)
デバイスマネージャでびっくりマークついてるのを削除したら
その後は平穏なかんじー

これって書写(引用)と日記のような気も・・・


プルーストとお菓子

プルーストの作品、『失われた時を求めて』は
長大な小説なのでさまざまなものが登場するけれども
お菓子もけっこう登場します
一番有名なシーンには「マドレーヌ」が登場します

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)
(1992/09)
マルセル プルースト

商品詳細を見る



『失われた時を求めて』1
p74

……プチット・マドレーヌと呼ばれるお菓子の一つだった。そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しとにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋に触れた瞬間に、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせたのであった、あたかも恋のはたらきとおなじように、そして何か貴重な本質で私を満たしながら、というよりも、その本質は私のなかにあるのではなくて、私そのものであった。私は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものと感じることをすでにやめていた。一体どこから私にやってくることができたのか、この力強いよろこびは? それは紅茶とお菓子との味につながっている、しかしそんな味を無限に超えている、したがっておなじ性質のものであるはずはない、と私は感じるのであった。



「見出された時」でもなんか公爵の家にいってお菓子もらってたような気がするけど
超うろおぼえすぎるし、探し直すのも億劫なのでまたこんどー

あとは、こっちのブログには収録してなかったようなところも
ついでに収録ー

フェルメールのデルフトの眺望の絵の前でのベルゴットの死
──の箇所です

『失われた時を求めて』
8囚われの女

p314
(ベルゴットの死、フェルメールの絵)
 ある人がちょうどその日に死んだ、ということを知って私はひどく心を痛めた。ベルゴットが死んだのであった。

p321

p322
やっとフェルメールの絵の前にきた、その彼には、およそ知っているどの絵よりもはなやかで、他とはかけはなれていたという記憶があった、しかし彼は批評家の記事のおかげで、いまはじめて、青い服を着た小さな人物が何人かいること、砂がばら色をしていることに気がついた、そして最後にほんの小さく出ている黄色い壁面のみごとなマチエールに気がついた。目まいがひどくなってゆく、彼は子供が黄色い蝶をつかまえようとするときのように、みごとな小さな壁面に視線をしばりつけていた。「こんなふうにおれは書くべきだった」と彼はいうのだった。「おれの晩年の書物はどれもこれもうるおいがなさすぎる、いくつもの色層をかさね、おれの文章をそれ自身のなかでりっぱにすべきだった、この黄色い小さな壁面のように。」そのあいだも、目まいのひどさは彼から去りはしなかった。彼の目に、天上の秤が、その一方の皿に彼自身の生命をのせてあらわれていた、もう一方の皿には黄色でじつにうまく描かれた小さな壁面が置かれていた。彼は後者のために無謀にも前者を犠牲にしたことを感じていた。「おれは、しかし」と彼は自分にいった、「この展覧会の三面記事になって夕刊紙に載せられたくないな。」
 彼は心にくりかえすのであった、「廂のある黄色い小さな壁面、黄色い小さな壁面。」くりかえしているうちに、円形に腰かけられるソファの上にたおれかかった、すると突然彼は自分の生命が危険に瀕しているとは考えなくなった、そして楽観的な気持にもどって、自分にいった、「ただの消化不良を起こしただけだ、あのじゃがいもがよく煮えていなかったためだ、なんでもないんだ。」第二の発作が彼をうちたおした、彼はソファからゆかにころがり落ちた、そこへ見物人も監視人もみんな駆けつけた。彼は死んでいた。永久に死んでしまったのか? 誰がそうと言いえよう?



ここにはお菓子は登場しないけれども、じゃがいもとか食べ物は登場します

またあとでーと書きつつ、本をひっぱりだしてきたり

『失われた時を求めて』
10 見出された時

p318

それからは、まるで、この日、私を失望からひきだし、私に文学への信頼をとりもどしてくれる表徴(シーニュ)が、自分で懸命にふえてゆこうと心がけているかのようだった、というのは、長らくゲルマント大公に仕えている一人の給仕人頭が、私だということを知って、私が通されている図書室に、私がビュッフェまで行かなくてもいいように、プチ・フールのとりあわせと一杯のオレンジエードとをもってきたので、私は彼がわたしてくれたナプキンで口を拭いたのだ、ところがそのとたんに、あたかも『千一夜』の人物が、自分をただちに遠くへはこんでくれる素直な魔神(ジェニー)を自分だけの目に見えるように出現させる、まさにそのような儀式をそうとは知らずにやってのけたかのように、コバルト・ブルーの新しい視像が、ちらと私の目のまえを通りすぎた。


プチ・フールが登場していました
こんなことは覚えてるらしい・・・

映画『見出された時』については②でかいたけどー

 http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-17.html

そこに登場するナレーションに対応する箇所をみつけました
とりあえずそこも収録ー

『失われた時を求めて』
10 見出された時
p321

そうなのだ、回想は、忘却のおかげで、それ自身と現在の瞬間とのあいだに、なんの関係をむすぶことも、どんな鎖の輪を投げることもできなかった、回想は自分の場所、自分の日付にとどまったままだった、回想はいつまでもある谷間の窪道に、ある峰の尖端に、その距離、その孤立を保ってきた、というのが事実であるにしても、その回想が、突然われわれにある新しい空気を吸わせるというわけでは、その空気こそまさしくわれわれがかつて吸ったある空気だからなのである。そうした一段と純粋な空気こそ、詩人たちが楽園にみなぎらせようと空しく試みたものであり、その空気はすでに過去において吸われたことがあって、はじめて、あのように深い再生の感覚をあたえることができるのであろう、けだし、真の楽園とは、人がひとたび失った楽園なのだ。


他も全部あるのかなー

というわけで、フランスのお菓子といえばー

また、日記・・・



とってもおいしいケーキ屋さんを最近見つけてお気に入りー
茨城県の守谷市の、ふれあい道路ぞい(南側)にあります
ジョイフル本田より西で、アクロスモールより少し手前ー

お菓子工房
「プティ・ルー」 Petit Loup
 (定休日 火曜日)



とってもおいしいーヽ(´ー`)ノ

都心とかでおいしいケーキやとして紹介されるようなところと
同列に語っても(地元びいきとかでなく)すごくおいしいかとーヽ(´ー`)ノ

写真でもとろうかと思いつつ、毎回、食べ終わってから思い出す、、、

追記ー

一応とったけどこれ、、、

チーズケーキの.jpg

いい加減この携帯買い換えようかなーとか思うけど
この間別の携帯を2個買い換えるとき、とってもめんどくさかったので
めんどくさい、、、


 | HOME | 

FC2Ad

 

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

[ベケットギャラリー]

(ベケットの戯曲の抜粋ランダム)

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリー

全ての記事を表示

→全ての記事を表示

最近の記事

『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと⑤
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと④(読書法のこと)
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと③
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと②
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと①
ipodが壊れて買ったにっき
老子の読書めも②
リヴァイアサン読書メモ2(感覚、造影について)
贈り物には羊羹・贈り物には羊羹・贈り物には羊羹
氷が手に着くのは何でなのかな
ラジオのジャズのこと
リヴァイアサン読書めも1

ブログ内検索

Lc.ツリータグリスト

カウンター

 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。