kuzukiria_blog(文学的)

読書とか、いろいろなお勉強(byウィキペディア)とか、文章(文学、芸術、哲学)とか・・・


2017-04

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『侏儒の言葉』(芥川龍之介)~アフォリズム考察

『侏儒の言葉』(芥川龍之介)

これについて芸術に関する箇所を拾い読みー

テキストは「青空文庫」から
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/158_15132.html

創作

 芸術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? 或は大半と云っても好い。
 我我は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのずから作品に露(あらわ)るることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖(いふ)を語ってはいないであろうか?
 創作は常に冒険である。所詮(しょせん)は人力を尽した後、天命に委(ま)かせるより仕方はない。

少時学語苦難円 唯道工夫半未全
到老始知非力取 三分人事七分天

 趙甌北(ちょうおうほく)の「論詩」の七絶はこの間の消息を伝えたものであろう。芸術は妙に底の知れない凄(すご)みを帯びているものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆(ほとん)ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無気味な芸術などと格闘する勇気は起らなかったかも知れない。

   鑑賞

 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具(そな)えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧(あいまい)に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧(むし)ろ廬山(ろざん)の峯々(みねみね)のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。

   古典

 古典の作者の幸福なる所以(ゆえん)は兎(と)に角(かく)彼等の死んでいることである。

   又

 我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。

   幻滅した芸術家

 或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼(しんきろう)は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽(たちま)ち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣(わけ)ではない。



ヽ(´ー`)ノ

これはアフォリズムっぽいものです

▼侏儒の言葉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8F%E5%84%92%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89

『侏儒の言葉』は、芥川龍之介の箴言集・文学作品。



アフォリズムは箴言ともー

箴言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(アフォリズム から転送)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

箴言は、警句・金言とも言い、英語で言うとアフォリズムである。箴言(しんげん, mišlēy, Liber Proverbiorum)は、ユダヤ教では「諸書」の1つであり、キリスト教では知恵文学の1つとして『詩篇』の後に置かれる。

題名はヴルガータ訳におけるタイトル「Liber Proverbiorum」に由来する。 内容は教訓の集合体であるが、「主をおそれることは知恵のはじめ」(1:7)という事に集約されるといえよう。箴言中の格言の多くはソロモン王によって作られたとされている。





・アフォリズムに関する考察(アフォリズム的に)

アフォリズムというのは箴言のことです
思想などを短くまとめたものです
これについて考察してみることに

①なぜ人はアフォリズムを書くか

誰でも何かについて判断をしたり意見を持ったりすることが必要になるときがあります
そのために、基本方針、基準となるものが必要になってきます
そのためにアフォリズムは書かれるのだけれども
それは法律というより、マニュアルに近いものではないでしょうか

マニュアルは充実しているほうがいい──
それを充実させていくことに熱中すると
人は、さまざまなジャンル、分野についても考えます

アフォリズムを読むと、人生とは、神とは、政治とは・・・
とたいてい、広汎な分野を網羅しています
もちろん、生活をしていればさまざまな分野に興味を持つことは一般的だし
マニュアルとしてはあらゆる状況に対応できるほうがいいわけです

けれども問題があります
ある個人は、得手不得手が必ずあります
たとえば論文であったら、さまざまなジャンル、あるいは、
あらゆる分野について論文を書く──ということはあまりないというか、
そういう人の論文は専門的とは見なされないかと

あらゆる状況に対応するマニュアルを用意したい
──そういう野望、あるいは必要性をもたれることによって
アフォリズムは広汎な分野に広がります
その結果、アフォリズム作者にとって不得手な分野についても
アフォリズムは作られます

アフォリズムを見るとき、読み手はこのような事情に配慮することが
読みながら混乱をしない手立てになります

   ※

一つの箇所ではいいことをいっている、別の箇所ではとんちんかんだ──

これは、アフォリズム作者と、読み手の考え方の違いだけによるとは限りません
アフォリズム著者にとって、
上手い考えが浮かんだお題もあれば下手な考えが浮かんだお題もある
──こうみなしたほうが適切な場合もあります

   ※

アフォリズムを作るとしたら気を付けるべきは
野心を持ちすぎず、あるいは自分の能力や知識を過信せず
明らかに不得手なことには触れないでおくことが必要ではないでしょうか

これは、アフォリズム作者が有名人だった場合、多大な弊害をもたらす場合があります
次のような感じでその弊害は発生します

 ある一つのアフォリズムがとても素晴らしい思想である
    ↓
 こんな素晴らしい思想を持つ人は偉大な思想家である
    ↓
 偉大な思想家の思想は偉大である
    ↓
 その人物の全てのアフォリズム(や文章)を検討することなく信じる(信者化)

そうして、もし信仰する人物が、なんとなく
「ワインは白より赤のほうが優れている」と書いたとしたら、
それはたんに、たまたま赤ワインを飲んでいてそれが美味しくてご機嫌だっただけ
という背景があったとしても
信者は赤ワイン原理主義のような思想を持つことになったりするわけです

結論としては、広汎な分野について無責任なことを書き散らすのは有害
無責任なことは書かない方がまし

   ※

結局の所、アフォリズムがマニュアルなら、
一人一人が別人な以上、同じマニュアルが通じることはありえない

誰かと誰かが型式の同じ機械と同様に類似している、と考えないかぎり

   ※

②なぜ人はアフォリズムを読むか

人生の上でマニュアルは必要だけれども
それがオリジナルである必要はとくにないわけで
自分で納得してマニュアルとして使えれば問題ないことです
使えるマニュアルを、アフォリズムを読むことによってピックアップします
さまざまなところからピックアップして、それを自分用にまとめればそれで充分です
それでも足りないという場合に、自分で考えればいい話・・・

   ※

人はたいてい、自分のマニュアルを求めてアフォリズムを読みます
だからアフォリズムは、文学というより実用書といってよさそうです
だから読むときの態度はとても実用書的です
作品全体はどんなものか、著者の思想はどういうものか──
そういう客観的な態度で読まれることは、研究者以外にとってはほとんどないのが
このジャンルではないでしょうか
自分に関係ないことはどうでもよく、他の箇所との整合性などは気にもとめません

   ※


③アフォリズムというマニュアルのの取扱い方マニュアル

私のアフォリズムに関するマニュアルです

個人的には、あらゆることについて語りたいという野望が現れているものが嫌いです
個人的メモとしてならいいけれど
個人的メモとマニュアルとは、やっぱり別かと
個人的思考メモをマニュアル化するか、マニュアルに格上げしないか
その区別はあります



ヽ(´ー`)ノ

というわけで、芥川の『侏儒の言葉』にもどります

これはアフォリズムといっても序にあるように

『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。



この意味では個人的思考メモ、に区分されるものも多いようです

ヽ(´ー`)ノ

というわけで、今回拾い読みした部分について少しみてみます

鑑賞

 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。



これはアフォリズムの読み方自体にもいえることです
他にも通じるけど、ここではおいといて、、、

芥川は他の箇所で芸術について語っています
で、私は、それに目を通したとしても、
芥川の研究をしたくて拾い出したわけでもないので
気に入らないものは収録していません

あるいは、もし全てを網羅するとしたら
それぞれが、よくできたアフォリズムか、できが悪いアフォリズムか
点検&評価する作業からはじめないと、、、

芸術以外にも様々なジャンルについてふれています
個人的思考メモ──が多いけれど、
それはそれで、エッセーの一種だと思えばいいわけです
ただ、読み手が信者化して
(そもそも、小説作品のファンだからといって、思想と作品は別だったりするから
 アフォリズムの信者になる必要はないわけだけど、なかなかすっきりいかないわけで)
メモを、正しいアフォリズムとしてうけとるとしたら有害かなー
芥川がそこまで責任もたなければいけない筋合いもないけど

どんな有能な思想家でも、時代や流行の影響を受けます
というか、常識とか日常は、そういう社会の雰囲気(空気)を受けて出来上がっているわけで
そのなかで、それらの影響から免れた思想を持つことができたとしたら
その思想は、オリジナリティがある、といえるわけで
基本はお仕着せの常識──その海の中にぽつぽつ、自前の思想が浮かんでいることもある
そんな風景を思い浮かべたほうがいいかも

ヽ(´ー`)ノ

というわけで、だらだらと人は考えたりすることが好きで
自分なりの結論を出すことは、自分のマニュアル整備になって
後々の悩みが減ると思えば、準備を整えたい人にとっては
さまざまなことをあらかじめ考えておくことは、とても魅力的なことです
あるいは、不安の解消、不安の解消への欲望、とか、、、

それを整備したものがアフォリズムになるのではないでしょうか

ここでいうアフォリズムは、個人的、自分用アフォリズムになるけれど

とりあえず、今日のところはこの辺で







 | HOME | 

FC2Ad

 

カレンダー

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

[ベケットギャラリー]

(ベケットの戯曲の抜粋ランダム)

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリー

全ての記事を表示

→全ての記事を表示

最近の記事

『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと⑤
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと④(読書法のこと)
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと③
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと②
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと①
ipodが壊れて買ったにっき
老子の読書めも②
リヴァイアサン読書メモ2(感覚、造影について)
贈り物には羊羹・贈り物には羊羹・贈り物には羊羹
氷が手に着くのは何でなのかな
ラジオのジャズのこと
リヴァイアサン読書めも1

ブログ内検索

Lc.ツリータグリスト

カウンター

 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。