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2017-06

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『悲劇の誕生』(ニーチェ)~世界の存在は美的現象としてのみ是認される

この本はとても個人的に思い入れのある本です
1988年の奥付で傍線がいっぱいあって
傍線としての役目を果たしているのか疑問になったりするけど
十代のころから今に至るまでとても影響多大な本です
2冊目買おうかなと思ったりー
なんか分解しそうになってる・・・

悲劇の誕生 (岩波文庫) 悲劇の誕生 (岩波文庫)
ニーチェ (1966/01)
岩波書店

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私が持っているのは
パラフィン紙(グラシン紙)がカバーの
古いタイプの岩波文庫です
岩波文庫のこのタイプの装丁はいつまでだったのかな
普通のカバーと変わり目の頃は本棚の見た目が
まぜこぜになって気分が悪かったこととか思い出したり

読んだのがとても昔なため収録とかあんまりされていません
せっかくなので今回いろいろ書写してみようかなーと

まずはまったり目次収録ー

▼目次

悲劇の誕生
 あるいは ギリシア精神とペシミズム


 自己批評の試み(一八八六)

音楽の精髄からの悲劇の誕生(一八七〇-七一)

リヒャルト・ワーグナーにあてた序言(一八七一)

一 アポロ的夢幻とディオニュソス的陶酔
二 ディオニュソス的ギリシア人
三 アポロ的文化の基底
四 アポロ的・ディオニュソス的なギリシア文化の推移
五 抒情詩人の解釈
六 詩と音楽との関係
七 悲劇合唱団の起源
八 サチュロスと演劇の根源現象
九 ソフォクレスとアイスキュロス
一〇 悲劇の秘境
一一 悲劇の死とエウリピデス
一二 エウリピデスの美的ソクラテス主義
一三 ソクラテスの主知的傾向
一四 ソクラテスとプラトン
一五 理論的人間と悲劇的認識
一六 音楽と悲劇的神話
一七 理論的世界観の芸術的現象
一八 アレクサンドリア的文化
一九 楽天主義的オペラ文化と悲劇の再生
二〇 現代文化の様相
二一 ワーグナーの楽劇
二二 芸術としての音楽的悲劇と美的観衆
二三 ドイツ神話の再生
二四 音楽の不協和音
二五 不協和音の人間化



ヽ(´ー`)ノ

次は本文です
何回にもわたって本文を収録しているため
なんかへんなところとかあるけど
とりあえずはりつけー

『悲劇の誕生』
 ニーチェ
 岩波文庫

【凡例】
①(・・・・・)はその前の五文字に傍点がついていることを示す。煩わしい場合省略している場合もある。
②ボールド、アンダーラインなどの文字装飾は個人的なチェック用。


▼自己批評の試み(一八八六)

p16
 すでにリヒャルト・ワーグナーにあてた序言のなかで提唱されているように、人間の真に形而上学的な(・・・・・)活動は芸術であって──道徳ではない(・・)。「世界の存在は美的現象としてのみ是認される(・・・・・)」という諷刺的な命題が本文にもなんどかくりかえされている。実際、この本全体は、いっさいの現象の背後に、芸術家的な心と底意が働いているということしか知らないのである、──お望みならばそれを、いっさいに現象の背後にある「神」といってもよいが、ただしそれはとやかく考えることのない、まったく非道徳的な芸術家としての神である。

▼三 アポロ的文化の基底

44p
古い伝説によれば、ミダス王はディオニュソスの従者である賢者シレノスを長いあいだ森の中で追い回していたが、捕らえることはできなかった。しかし、シレノスがついに王の手におちいった時、王は、人間にとって最もよいこと、最もすぐれあことは何であるか、と問うた。……がとうとう王に強いられて、からからと笑いながら、次のような言葉を吐き出したのである。「みじめな一日だけの種族よ、偶然と労苦の子らよ。聞かないほうがおまえにとって一番ためになることを、どうしておまえはむりに私に言わせようとするのか? 一番よいことは、おまえには、とうていかなわぬこと。生まれなかったこと、存在しないこと、無であることだ。しかし、おまえにとって次善のことは──すぐ死ぬことだ。

▼五 抒情詩人の解釈

p57
なぜなら、われわれは主観的芸術家などというものは、へたな芸術家としてしか知らないし、芸術のどんな種類においても、段階においても、われわれが何をおいても真先に要求するのは、主観的なものの克服・「自我」からの解放・すべての個人的な意志や情欲の沈黙であり、それどころか、客観性なしには、純粋で利害を離れた直観なしには、われわれはとうてい真に芸術的な製作など信じることができないからである。

p58
そして、もし音楽が世界の反復、その二度目の鋳造と呼ばれてきたことが正しいとすれば、彼はこの根源的一者の模像を音楽として生み出すのである

p59
従って、抒情詩人の「私」は存在の深淵からひびいてくるのである。近代の美学者たちが抒情詩人の「主観性」などというのは、ひとつの空想にすぎない。

 彫刻家およびこれと同系統の叙事詩人は、さまざまの姿かたちを純粋に見るということに没頭する。ところがディオニュソス的音楽家はどんな形象をも持たない。そして完全に自分自身が根源的苦痛であり、この苦痛の根源的反響なのである。抒情的天才は、自己を放棄して合一するというあの神秘的状態から、彫刻家や叙事詩人の世界とは全然別な色彩・因果関係・速度を持った、一つの象徴的比喩的世界が生い立ってくるのを感じる。

p60
これに反し、抒情詩人の形象は彼(・)自身にほかならない。それはいわば自分自身のいろいろ違った客観化にすぎない。彼があの形象の世界の動的中心点として、「私」といってさしつかえないのも、そのためだ。ただ、この「私」は、醒めている自我、経験的・現実的な人間の自我と同じものではない。およそ真に存在する唯一の永遠の自我、事物の根底に根をすえた自我、そのもろもろの似姿を通して、抒情的天才が事物の根底を見ぬく大きい自我なのだ。

p62
主観というもの、自分の利己的目的を追求する個体というものは、芸術の敵と考えられるだけで、芸術の根源とは考えられないからである。

p63
なぜなら、美的現象としてだけ、生存と世界は永遠に是認されているからである。

p68
 抒情詩というものは、言葉が音楽を模倣するもので、従って言葉のもつ象徴的比喩や言葉のあらわす概念を通して音楽が閃光のようにひらめくものであると見ていいとすると、その次に問題になるのは、「そういう象徴性と概念の鏡に音楽はどういうものとしてあらわれるか(現象するか)?」という点である。音楽は意志として現象する、というのがその答である。

p69
──なぜなら、意志はそれ自体非芸術的なものなのだから──。だが、音楽が現象するときには意志なのだ。

p70
なぜなら音楽というものは、根源的一者の胸のうちにある根源の矛盾と苦痛を象徴的にあらわしているものなのであり、従って、いっさいの現象を越え、いっさいの現象以前に存在する領域を象徴するものだからだ。音楽とつきあわせてみれば、むしろどんな現象も比喩にすぎない。

▼七 悲劇合唱団の起源

p70
ディオニュソス的人間というのは、この意味ではハムレットに似ている。両者はともに事物の本質を本当に見ぬいた、つまり見破ったことがあるのだ。そこで彼らは行動することに嘔吐をもよおすのである。なぜなら、彼らがどのように行動したところで、事物の永遠の本質にはなんの変わりもないのであり、関節がはずれてしまったこの世をたてなおす務めなどいまさら負わされることに、彼らは滑稽な感じ、あるいは屈辱感しかいだかないからである。認識は行動を殺す、行動するためには幻想(イリュージョン)のヴェールにつつまれていることが必要だ──これがハムレットの教えであって、多すぎる反省のために、いわば可能性の過剰から、行動するに至らない夢想家ハンスのあの安っぽい知恵ではないのだ。行動へかりたてるすべての動機を圧倒するのは──反省なんかでは断じてない!  ──真の認識、身の毛のよだつ真実への洞察なのだ。

▼八 サチュロスと演劇の根源現象

p81
文学の領域はなにもこの現実の世界をはずれた外部にあるのではない。詩人の頭がでっちあげた空想的な不可能事なのではない。文学の欲するのは、そのちょうど正反対のこと、真実を飾りけなく表現しようとするのだ。だからこそ、文学は、文明人のいわゆる現実につきものの嘘だらけの飾りを投げすてざるをえないのだ。この本当の自然の真実と、唯一の現実をよそおっている文明の虚偽との対照(コントラスト)は、事物の永遠の核心である物それ自体と、全現象界との対照に似ている。


p83
詩人が詩人になるのは、自分の目の前で生き生きと行動するいろんな人物に彼がとりかこまれ、それらの人物の最も内面の本質を彼が見ぬくためだということ以上に、きまりきった話はないのである。……真の詩人にとっては、比喩は修辞的な形容なのではなく、概念に代って、実際にありありと浮かぶ代理的な心象(イメージ)なのである。彼にとって性格とは、個々の特徴をよせ集めて構成した全体というようなものではなくて、枯野目の前で厚かましいほどに生き生きと動いているひとりの人物なのだ。……ホメロスがすべての詩人にまさって、はるかに目に見えるように描写するのは、何によってであるか? 彼がそれだけ多く目で見るからである。われわれが詩についてひどく抽象的な談義をたたかわすのは、われわれがみな通例まずい詩人であるからにすぎない。根本の所美的現象は単純である。たえず生き生きとしたたわむれを見、つねに精霊の群れにとりかこまれて生きる能力を持ちさえすれば、ひとは詩人になれるのだ。自分自身の姿こころを変えて、他人の姿こころを語ろうという衝動を感じさえすれば、ひとは劇作家になれるのである。

さて、古代の伝承がきわめてはっきりわれわれに伝えていることは、《傍点:悲劇が悲劇の合唱団から発生したものであること、》 もともと悲劇合唱団(コーラス)にすぎなかったのであり、合唱団以外のなにものでもなかったということだ。(悲劇の誕生p71)

……プロメテウスやエディプスなども、みなあの本来の主人公であるディオニュソスの仮面にすぎなかったということだ。(p100)

p86
……合唱部こそ、舞台の世界全体の母胎であり、本来の劇の母胎なのだ。

p87
……舞台面も所作もともに、結局のところ、また根源的には、ただ《まぼろし》と考えられたものであること、唯一の「現実」はほかならぬ合唱団であるという見解に行きついたのである。自分の中からまぼろしを生み、このまぼろしについて、舞踏や音や言葉などの象徴的表現のすべてをつくして語る合唱団こそ、唯一の「現実」なのだ。

 舞台の本来の主人公であり、まぼろしの中心点であるディオニュソスは、以上のような見方に従えば、また伝承に従っても、最初は、悲劇の最古の時代には、実際には存在せず、ただ存在するものと考えられていたにすぎない。つまり期限的には悲劇は「合唱(コーラス)」のみであって、「劇(ドラマ)」ではなかったのである。






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