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2017-07

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『論理哲学論考』(ヴィトゲンシュタイン)~真理関数一般が書けない悲しみ

何かを記述するとき、文字や記号がないことによって
記述できないという問題にぶつかることがあります

それ自体なんとなく『論理哲学論考』ぽいきもするけれど
この問題点にぶつかったの自体が
『論理哲学論考』の中身を書こうとしてでした・・・

論理哲学論考 (岩波文庫) 論理哲学論考 (岩波文庫)
ウィトゲンシュタイン (2003/08/20)
岩波書店

この商品の詳細を見る


お仕事で、
後で画像つくる──とか書いたまま放置してたファイルを
あやうく出すところだった・・・

頼みのウィキペディアで調べたけれど
ウィキペディアでさえ画像をはってあったから
きっとこれはもう、文字データでは出せないんだろうなーという・・・

ちなみにそこの記述が

六 真理関数一般は、[   ]と書ける。これは命題の一般形式である。



だけれど、その[   ]の部分が書けないの・・・
なんとなく釈然としない現象でした

というわけで一応(あんまり綺麗じゃない)
画像ファイルを作ったので
それをはりつけておこうと思ったけれど
拡張子が対応してなかった。・゜・(ノД`)・゜・。

論理哲学論考の六のb.jpg


論理哲学論考六の記号(実際の拡張子はeps)のファイル



こんな感じでアップしておいたので
後で探すことになっても楽かなと

というわけで、ついでに『論理哲学論考』のメモの収録でもー
ひさしぶりにこの本ひらいたし・・・



●序文

 おそらく本書は、ここに表されている思想──ないしそれに類似した思想──をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう。──それゆえこれは教科書ではない。──理解してくれたひとりの読者を喜ばしえたならば、目的は果たされたことになる。
 本書は哲学の諸問題を扱っており、そして──私の信ずるところでは──それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。
 かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。
 したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。
……
 ……私の考えたことがすでに他のひとによって考えられていたのかなど、私には関心がないからにほかならない。
……
 他方、本書に表された思想が真理であること(・・・・・・・)は侵しがたく決定的であると思われる。それゆえ私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。そしてもしこの点において私が誤っているのでなければ、本書の価値の第二の側面は、これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったかを示している点にある。


ウィーン、一九一八年
L・W

●一 世界は成立していることがらの総体である。

一・一 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
一・一一 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべて(・・・)であることによって、規定されている。
……
一・二 世界は諸事実へと分解される。
……

●二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
二・〇二七一 対象とは不変なもの、存在しつづけるものである。対象の配列が、変化するもの、移ろうものである。(2.0271)
二・〇二七二 対象の配列が事態を構成する。
二・〇三 事態において諸対象は鎖の環のように互いに繋がりあっている。
……
二・〇六三 現実の全体が世界である。

二・一 われわれは事実の像を作る。
……
二・一二 像は現実に対する模型である。
……
二・一三一 像の要素は像において対象の代わりとなる。
……
二・一四一 像はひとつの事実である。
……
二・二 像は写像されるものと写像の論理形式を共有する。
……
二・一五一一 像はこのようにして(・・・・・・・)現実と結びついている。像は現実に到達する。
……
二・一九 世界を写しとることができるのは、論理像である。
……
二・二二一 像が描写するもの、それが像の意味である。
二・二二二 像の真偽とは、像の意味と現実との一致・不一致である。

●三 事実の論理像が思考である。
三・〇〇一 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。
……
三・〇一 真なる思考の総体が世界の像である。
三・〇二 思考は、思考される状況が可能であることを含んでいる。思考しうることはまた可能なことでもある。
三・〇三 非論理的なものなど、考えることはできない。なぜなら、それができると言うのであれば、そのときわれわれは非論理的に思考しなければならなくなるからである。
……
三・一 思考は命題において知覚可能な形で表される。
……
三・一二 われわれが思考を表現するのに用いている記号を、私は命題記号と呼ぶ。そして命題とは、世界と射影関係にある命題記号である。
……
三・一四一 命題は語の寄せ集めではない。──(音楽の主題が音の寄せ集めではないように)。命題が語へと分節化されるのである。
……
三・二 思考は命題で表現される。そのさい、思考に含まれる諸対象に命題記号の諸要素が対応する。
……
三・二〇二 命題において用いられた単純記号は名と呼ばれる。
……
三・二一 命題記号における単純記号の配列に、状況における対象の配列が対応する。
……
三・三 命題のみが意味内容をもつ。名は、ただ命題という脈絡の中でのみ、指示対象をもつ。
……
三・四 命題は論理空間の中に一つの領域を規定する。この論理的領域は、もっぱらその領域の構成要素の存在、すなわち有意味な命題が存在することによって、保証されている。
……

●四 思考とは有意味な命題である。
四・〇〇一 命題の総体が言語である。
……
四・〇〇三 哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。哲学者たちの発するほとんどの問いと命題は、われわれが自分の言語の論理を理解していないことに基づいている。……
……
四・一 命題は事実の成立・不成立を描写する。
四・一一一 哲学は自然科学ではない。
四・一一二 哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
 哲学は学説ではなく、活動である。
 哲学の仕事の本質は解明することである。
 哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸問題の明確化である。
 思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。

四・一一五 哲学は、語りうるものを明晰に描写することによって、語りえぬものを指し示そうとするだろう。
……
四・二 命題の意味とは、事実の成立・不成立の可能性と命題との一致・不一致である。
……
四・三 要素命題の真理可能性は、事実の成立・不成立の可能性を意味している。
……
四・四 命題は、要素命題の真理可能性との一致・不一致を表現したものにほかならない。
……
四・五 いまや、もっとも一般的な命題形式を提示することができると思われる。すなわち、不特定の(・・・・)記号言語に対して、命題とはいかなるものであるのかを記述すること。そのとき、名の指示対象を適切に選んでやれば、可能な意味はすべて、その記述にあてはまるシンボルによって表現することができ、また、その記述にあたってはまるシンボルはすべて、相応の意味を表現しうることになる。明らかなことであるが、もっとも一般的な命題形式の記述にさいしては、ただその本質的なものだけ(・・)が記述されねばならない。──さもなければ、その形式はもっとも一般的なものではないことになる。 ひとが予見不可能な(すなわち構成不可能な)形式をもつ命題など存在しえない。このことは、一般的な命題形式が存在することを示している。「事実はかくかくである」──これが命題の一般形式である。
……

●五 命題は要素命題の真理関数である。
……
五・一 真理関数は一列に順序づけられる。
……
五・二 諸命題の構造は互いに内的関係にある。
……
五・三 すべての命題は要素命題に真理操作を施した結果である。 真理操作とは、要素命題から真理関数を作る方法である。 真理操作の本質からして、要素命題から真理関数を作る場合と同じ仕方で、真理関数からも新たな真理関数が作られる。すべての真理操作は、要素命題の真理関数から再び要素命題の真理関数を、すなわち命題を、作り出す。つまり、要素命題に真理操作を施した結果にさらに真理操作を続けて施しても、その結果はすべて、けっきょくのところ要素命題に一つの(・・・)真理操作を施した結果となるのである。 かくして、どの命題も要素命題に真理操作を施した結果である。
……
五・四 ここにおいて、「論理的対象」すなわち「論理定項」(フレーゲとラッセルの意味における)は存在しないことが示される。
……
五・五 いかなる真理関数も、要素命題に次の操作を反復適用した結果である。
……
五・六 私の言語の限界(・・・・・・・)が私の世界の限界を意味する。
……
五・六二 この見解が、独我論はどの程度正しいのかというという問いに答える鍵となる。
 すなわち、独我論の言わんとする(・・・・・・)ところはまったく正しい。ただ、それは語られ(・・・)えず、示されているのである。
 世界が私の(・・)世界であることは、この(・・)言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の(・・)世界の限界を意味することに示されている。
五・六二一 世界と生とはひとつである。
五・六三 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
五・六三一 思考し表象する主体は存在しない。
 「私が見いだした世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され……。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味においては主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない(・・)唯一のもの、それが主体なのである。
五・六三二 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。

五・六四一 それゆえ、哲学において、自我について心理学的にではなく論じうる意味がたしかにある。 自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入りこむ。 哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の──部分ではなく──限界なのである。

_ _ _
●六 真理関数の一般形式はこうである。[p,ξ,N(ξ)]  これは命題の一般形式である。
……
六・〇二一 数は操作の冪(べき)である。

六・〇三一 集合論は数学ではまったくよけいである。

★六・一 論理学の命題はトートロジーである。
……
六・一二五一 それゆえ論理においても驚きはけっして(・・・・)生じえない(・・)。
★六・二 数学とはひとつの論理学的方法にほかならない。 数学の命題は等式であり、それゆえ疑似命題である。
……
★六・三 論理学の探求とは、〔可能な〕すべての法則性(・・・・・・・)の探求にほかならない。そして論理学の外では、いっさいが偶然的である。
六・三七三 世界は私の意志から独立である。
……
★六・四 すべての命題は等価値である。
六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。……
六・四二 それゆえ倫理学の命題も存在しえない。 命題は〔倫理という〕より高い次元をまったく表現できない。
六・四二一 倫理が言い表しえぬものであることは明かである。 倫理は超越論的である。
 (倫理と美はひとつである。)
……
六・四三 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき……幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。
六・四三一 同様に、死によっても世界は変化せず、終わるのである。
……
六・四四 神秘とは、世界がいかに(・・・)あるかではなく、世界があるというそのこと(・・・・)である。

★六・五 答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。 謎(・)は存在しない。
……
六・五二 たとえ可能な(・・・)科学の問いがすべて(・・・)答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これが……われわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されていない。そしてまさにそれが答えなのである。
……
六・五三 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は──それゆえ哲学とは関係のないこと以外は──何も語らぬこと。そして……
……


●七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。



ヽ(´ー`)ノ
★はただの何かのメモだったような、、、

という感じだけど
以前のメモの収録だけでもなんなので
今回は、問題の
「六 真理関数の一般形式はこうである。」
のところについている注を収録してみます
ウィキペディアでも画像だから
はり付けたテキストデータではさっぱりー
今回は、無理矢理テキストデータでがんばってみることに・・・

論理哲学論考の六のb.jpg


訳注
p209

(88)
 _ _  _
 [p,ξ,N(ξ)] ──
 _
 pは要素命題の集合を表す。これが命題の構成の出発点である。
 _
 ξはなんらかの命題の集合を表し、
  _
 N(ξ)はそれらの命題をすべて否定し論理積「かつ」で結ぶという真理操作を表す。これによって「命題」が機能的に規定される。すなわち、
 _
 pに含まれるものは命題であり、
 _
 ξがすべて命題であれば、それに対して操作Nを施したものもまた命題である。もう少し具体的に言うとこうである。──まず、個々の要素命題に操作Nを施せば、要素命題の否定が得られる。次にそうして得られた要素命題とその否定からいくつかの命題を取り出し、それに対して操作Nを施す。それによってまた新たな命題が構成される。そうして得られた命題集合から再びいくつかの命題を取り出し操作Nを施す。こうして、要素命題を基底とし、操作Nをくりかえしくりかえし施していくことによって、次々に新しい命題が構成されることになる。このようにして得られる命題が、「命題」と呼ばれうるもののすべてにほかならない。



ヽ(´ー`)ノ

ちなみにウィキペディアでの解説はこんな感じー

命題6が実際に語っているのは、要素命題の総体に対する一連のNAND(否定論理積)演算によって、どんな論理的言明も派生させることができるということである。これは実際は、ヘンリー・シェーファーによる著名な論理学の定理であり、ウィトゲンシュタインはこれを利用している。



ヽ(´ー`)ノ




最後にウィキペディア様

▼論理哲学論考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%AB%96%E8%80%83

『論理哲学論考』(ろんりてつがくろんこう, Tractatus Logico-philosophicus)はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの著作。ウィトゲンシュタインが生前に出版したただ一つの哲学書であり、かつ前期ウィトゲンシュタインを代表する著作である。後期ウィトゲンシュタインの代表作である『哲学探究』が『探究』と略されるのに対し、この『論理哲学論考』は『論考』と略される。

第一次世界大戦のさなかの1918年に執筆され、初版はドイツで1921年に出版された。

スタイル
論理哲学が勃興しつつあったこの時代、ウィトゲンシュタインは哲学が扱うべき領域を明確に定義し、その領域内において完全に明晰な論理哲学体系を構築しようと志した。

『論考』では、言語(Sprache)の有意味な諸命題すべては各々世界の諸事態の「像」(Bild)であるとして、言語と世界とを平行関係に考えつつその構造を解明する。全体は7章からなり、それぞれの章は、番号づけられた短い命題の集合で構成される。


[編集] 内容
Die Welt ist alles, was der Fall ist.
世界とは、起きている事全てのことである。(物ではなく、事実の総体であるとする)
Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.
起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである。(事態+成立=>事実)
Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke.
事実の論理上の像が、思想(思惟されているもの、思考対象、思想内容)である。(事実/思想がパラレル。事態と思想ではない)
Der Gedanke ist der sinnvolle Satz.
思想は、意義を持つ命題である。
Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsätze. (Der Elementarsatz ist eine Wahrheitsfunktion seiner selbst.)
命題は要素命題の真理関数である。(要素命題は、自分自身の真理関数である。)
Die allgemeine Wahrheitsfunktion ist:. Die ist die allgemeine Form des Satzes.
真理関数一般は、と書ける。これは命題の一般形式である。
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
語りえないことについては、沈黙するほかない。
注釈

意義と意味
前期ウィトゲンシュタインにおいては、フレーゲの定義を引き継いで、意義(内包的意味 sense 独語 Sinn)は命題が表す事態、意味(外延的意味 reference,denotation,独語 Bedeutung)は指し示す対象のことである。現実と言語は、名前(名辞)が対象に対応し、事実の論理形式が、命題の論理形式に対応する。
語ると示す 
語りうることとは、真偽命題(しかじかが、これこれである、という事態が存在する)の形で表現可能なことであり、前期ウィトゲンシュタインにとっては、これが、言語、有意味に語りうることの領域に重なる。示しうることは、そのような形で表現可能ではないが、しかし言語によって了解させることができることである。

[編集] 命題 1.*-3.*
命題 1.*-3.* とその補助命題の主要テーゼは、ウィトゲンシュタインの写像理論である。

世界は相互に連結された諸々の原子的事実の総体からなっており、一方で命題群は世界の「像」を為している。
或る一つの像が或る一つの事実を映す為には、この像は、何らかの形で、その事実と同じ論理構造を保有していなければならない。こうして、言語表現をある種の幾何学的投影とみなすことができる。そこでは、言語はさまざまに投影された可変的な形式にあたり、その言語表現の論理構造は変化しない幾何学的な関係にあたる。
複数の論理構造の間で、何が共有されているかを、言語によって語ることはできず、ただ、示すことしかできない。われわれの使用している言語は、こうした関係に依存しており、その為に、われわれは、言語の外に言語によって出ることはできないからである。

[編集] 命題 4.*-5.*
命題 4.*-5.* とその補助命題を通じて、ウィトゲンシュタインは論理的な理念的言語の構成のために必要になる形式的な諸装置を追究した。彼の用いた真理値表は、今では命題論理の意味論を説明するための標準的な手段となっているが、これはそれなしだった場合よりも厳密な考慮を形式論理学にもたらす。

命題 5.101 でウィトゲンシュタインは、おそらく史上はじめて、「TFTT」のような二値のビット・パターンによって、「もしCならばAである」というような文のありえるパターンを網羅できることを示した。このことは現在のサイバネティクス研究者を大いに楽しませている。
命題 5.101 はゲーデル数の特殊な場合であることが後に判明した。かれはまるで注釈のような短いスペースで十分なだけの基礎問題、ラッセルのパラドックス、トートロジーや矛盾、真理関数の概念をカバーしている。かれはまた、言語、科学、信仰、そして帰納の間の繋がりという問題をも取り扱っている。

5.2522「或る形式的系列 a, O' a, O' O' a, ... の一般項を [a, x, O' x] と書くこととする。このとき、このカッコ内の記号表現は変項であり……」
命題 5.2522 は帰納法を表現している。 a は述語であり、O' a は a に対する操作である等々。この記法が命題6以降で用いられるが、それによって a のありうる真理関数すべての外延を示すことが意図されているのである。


[編集] 命題 6.*
命題6の始まりで、ウィトゲンシュタインはすべての言明の本質的形式を仮定している。この文章は、それは部分的にはウィトゲンシュタインの独特な記法であるの責任なのだが、一読して受ける印象ほど謎めいたものではない。ここで記号の意味を解説する。

は要素命題を表現している。
は諸命題の任意の部分集合を意味する。
は を構成するすべての命題の否定を意味する。
命題6が実際に語っているのは、要素命題の総体に対する一連のNAND(否定論理積)演算によって、どんな論理的言明も派生させることができるということである。これは実際は、ヘンリー・シェーファーによる著名な論理学の定理であり、ウィトゲンシュタインはこれを利用している。

続く命題6の補助命題群において、かれは論理学のより哲学的反省、つまり知識や思考、アプリオリや先験的、超越的、といった理念に関連する問題へと移る。最後の一節では、論理学と数学はトートロジーと先験的、超越的なものしか表現しないと論じられる。たとえば、それらは「形而上学的主体」にとっての世界=経験される現象の世界の外側に位置している。他方で、論理的に「理想的」な言語は意味を持っているのではなく、世界を反映する。そうである以上、論理的な言語の文は、事実を単に反映しているのでないなら、もはや意味あるものであり続けることはできない。

最後のページでウィトゲンシュタインは宗教的考慮ともみなされうるものへと方向を転じる。これは命題6.3と6.4の間の懸隔に見ることができる。論理実証主義者にとっては、6.4以前の『論考』の命題は受け入れ可能だろう。しかし、6.41とそれに続く命題群は、倫理もまた先験的・超越的であると論じ、言語によっては検証できないとする。それは美学の一形式であり、表現不可能なのである。自由意思、死後の生、神についてかれは論じはじめる。かれはそうした論題を検証して、そうした事柄の議論はすべて、論理の誤用であるとする。

特に、論理的な言語は世界をただ反映できるだけなのだから、神秘的な、つまり「形而上学的主体」の枠内の(主体は、世界の限界を為し、世界の内部には存在しない)現象的な世界の外部にあるものについての議論は、無意味なものとなる。このことは、倫理や形而上学などの、哲学の伝統的な論題の多くが、有意味に議論することはできない、ということを示唆する。そうしたものを論じようとしても、直ちにすべての意味が失われることになる。こうしたことはまた、言語を解き明かそうという彼自身の計画が、まさしくほかならぬこれらの理由で不可能であることを示唆する。かれは、哲学の試みは、究極的には、その外部にあるものではなくて世界を反映しようとする論理的実践のために、放棄されなければならないという。彼によれば、自然科学こそがまさしくそのような実践なのである。

テキストの最後で、かれはアルトゥル・ショーペンハウアーに由来する類比を借りて、本書を、ひとが上りきったときは放り投げなければならない梯子に引き比べている。それによって、かれは、ひとは本書の哲学を通じて哲学の全くの無意味さを理解しなければならない、と示唆しているのである。


[編集] 命題 7
この書物の掉尾を飾る命題7は補助命題を持たない。優美でいささか感動的な響きのある命題によってこの書物は閉じられる。「語りえぬものについては、ひとは沈黙に任せるほかない」


[編集] 解説
1と2から、世界は、事実の総体であり、ということは成立している事態の総体のことであることになる。そして事態とは、名前が組み合わされてできる論理的な関係のことであると定義される。例えば、花が咲く、という事態は、現実であることも現実でないこともある。

世界は、このうち、現実に成り立っている事態の総体である。命題は、この際に、その事態が、現実に成立しているかどうか(すなわちその真偽)を告げる。つまり、真理関数である、というのは、その真偽を宣言するということである。要素命題が、それ自身の真理関数であるということは、「花が咲いている」という要素命題は、「花が咲いている、ということが真である、現実である」を同時に意味している、ということである。つまり、要素命題は、それ自身の真偽の値を持ち、要素命題からなる複合的な命題は、それを構成している要素命題の真偽から一義的に、論理的な計算によって定まる。

こうして、『論考』は、現実世界の対象について、その間にどのような関係が成立しているかどうかについての真偽の知識を与えない命題は、意味を持たない、ナンセンスな命題であると述べる。したがって、自然科学こそが、すぐれて有意味な言明を与えるわけである。これが、『論考』の遂行する従来の哲学、形而上学批判である。このパースペクティブにおいては、哲学的命題は、『論考』自体も含めて(『論考』の諸命題もまた、現実の諸対象と、その間に成り立っている事態について記述しているわけではない)、矛盾しているがゆえに意義を持たないか、指示対象を持ち得ないゆえに無意味な命題であることが明らかになる。「上り終えた梯子は捨て去られねばならない」哲学に残されているのは、『論考』自身のように、そのこと自体を示すことだけとなる。

こうした観点からは、自我・意志・倫理・価値・神等は、それについての命題がどのようなものであれ、世界内の事実についての記述ではありえないがゆえに、意味を持たない命題であり、語りえない事柄に属するとされる。たとえば、価値や主体や自我は世界内の存在ではなく、世界の記述のパースペクティブのことであるから、それがいかなるものであろうと、そのことによって、世界内の事実、対象の間の関係が変化するわけではない。同様に、実在論と唯心論との完全な一致も主張される。どちらの観点を取ろうと、言明される事実は同一だからである。

なお、『論考』が、要素命題を、名辞を含みつつも、それ以上分析できない単位としたことは、フレーゲの文脈原理を受け継いでいる。

また、語の意味を、その外延的な現実世界における指示対象によって定義し、主観的思想内容による定義を排除しようとしている点では、バートランド・ラッセルの系譜の議論を引き継ぎ、その後のやはりあくまでも外延的な指示の理論として展開する、分析哲学の意味理論の傾向を確固たるものとしたといえる。


[編集] 語りえぬもの
『論考』、最後の命題「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」は形而上学の終焉を告知することばとして人口に膾炙し、現在でもしばしば引用される。しかし、大方の了解とは異なり、この言明は神秘主義的で不可知論的な命題が語られているわけでも、あるいは逆に形而上学的な領域の存在を否定しているわけでもない。

『論考』においては、語られえないものは示されうる。命題的に語られうるものを最大限明晰に語りきることによって、語り得ず、ただ示されうる領域を示すことは可能であり、まさしく『論考』はそのような行為を遂行しようとしたのであった。

有意味な(即ち、真偽について判断を為しうる)命題として形而上学的、あるいは価値的領域(『人生の問題』)を語ることができない、という『論考』の主張は、そのような領域が存在することを否定するものではない。そうではなく、形而上学的領域を「語って」しまう形而上学は意味を為さない命題の集合に堕すほかない、ということを意味している。

決して、原理的に真偽について判断を為しうる種類の事柄ではない、ということは、それが、了解の外部にあるということではないし、言語を超えた、あるいは情緒的な、何か神秘的な了解のコミュニケーションがあるのだ、ということでもない。あくまでも「示されうること」は、平明で具体的な言語などの実践を通じて、その意味内容としてではなく効果として了解されうることを指すのである。

この主題系は、ジョン・L・オースティンの事実宣言的(コンスタティブ)と行為遂行的(パフォーマティブ)の区別とずれながらも一部重なるところもあり、何よりも後期ウィトゲンシュタイン自身によって『哲学探求』において追求された。そこでは言語は現実の像としてではなく、ある種のゲームにおける実践として捉えられている。


[編集] 受容と影響
ウィトゲンシュタインは『論考』によってすべての哲学的問題は解かれたとみなし、その出版をもって引退し、オーストリアの小学校教師となった。

この間、この書物は、ケンブリッジ大学の数学者兼哲学者フランク・ラムゼイ(当時まだ十代であった)の手を借りてチャールズ・カイ・オグデンによって英語に訳された。『論考』はまたウィーン学団の哲学者たちの、とりわけルドルフ・カルナップとモーリッツ・シュリックの注意を惹いた。かれらのグループは、このテキストについて何ヶ月もかけて一行もおろそかにせず喧々囂々の議論を行った。シュリックは最後にはウィトゲンシュタインにウィーンを訪れたときには『論考』についてかれらと議論することへの同意を取り付けた。(当時彼は建築家として働いていた。)

ウィトゲンシュタインは、学団ときちんと会合しようとはせず、ただシュリック、カルナップ、ワイスマンを含むそのメンバーの何人かとだけ会った。しかし、しばしば、かれは哲学について議論することを拒み、会合をやめて、壁に椅子を向けて詩を暗誦するのだと言い張った。彼は、カルナップが許可もなく彼の考えのいくつかを使ったと信じるようになった後では、かれら学団のメンバーとの形式的な関係さえもすっかり絶つようになった。

かれらの受容についていえば、『論考』は、日常言語は、その通常の使用においては、まさしく世界内の自然的事実関係を記述するものとして使用されるがゆえに、十全なものであると前提している。しかし、学団の論理実証主義者たちは、『論考』の無意義な命題への批判を、そのような命題を可能にする日常言語の欠陥への批判であると受け止め、数理言語・人工言語によって為される自然科学のみを有意な言明として位置づけ、有意義な言明のみを産出するような普遍言語、論理的言語、完全言語の人工的な構築をも指向した。


[編集] ウィトゲンシュタインの哲学への復帰
シュリックとの『論考』の出版に続く時期に行われた議論はウィトゲンシュタインの哲学への復帰に大いに責任があった。かれは『論考』の思想と方法の両方に疑問を抱くようになり、1929年にケンブリッジに復帰した。次の二十年間は、かれは集中的に仕事を行いながらも何一つ出版することはなかった。1951年のかれの死の直後、かれの二つ目の傑作である『哲学探求』が遺言執行者たちによって出版された。この書物も言語の本性によって課される哲学の限界を扱っているとはいえ、『論考』によって叙述された言語の写像の理論とは、決定的に離れたものとなっている。


[編集] C・K・O訳論考へのウィトゲンシュタイン自身の評価
論理哲学論考は、まず1921年にドイツの物理学年鑑に掲載された後、翌年1922年、バートランド・ラッセルの序文と共に、C・K・オグデン(Charles Kay Ogden)を中心に進められた英訳を併記した独英対訳書として、イギリスのキーガン・ポール社から出版された。この英訳についてオグデンはウィトゲンシュタインの直接の関与によって注意深くなされたと主張しており、実際にウィトゲンシュタインの校訂の入った稿本も残っている。しかしウィトゲンシュタインの小伝を書いたG.H.フォン・ウリクト(Georg Henrik von Wright)は、その小伝でウィトゲンシュタイン自身から正反対の評価を直接に聞いたと主張し、原文の意味を台無しにする誤訳が多いとして早期の訂正を提言している。ウィトゲンシュタイン自身による具体的な指摘の内容は不明であるが、参考例として、

命題 1のドイツ語原文は、

Die Welt ist alles, was der Fall ist.
である。太字で強調した箇所は、当事者性の強い、現場の状況についての言及であることを強調する表現である。これに対するオグデン訳は、

The world is everything that is the case.
である。ちなみに命題 1.1のオグデン訳は

The world is the totality of facts, not of things.
である。これからすると命題 1でオグデンの使用している everything は適当な訳語とは言い難い。この箇所における邦訳では、中央公論社『世界の名著』訳では「その場に起こること」、大修館書店ウィトゲンシュタイン全集訳では「実情」という表現を使ってドイツ語原文の持つ状況性を表現している。これに対してオグデン訳を邦訳すると「世界はそうである もの の全てである」というような意味にしかならないであろう。これは、ウィトゲンシュタインが拒絶したラッセルによる『論考』の「論理的原子論」解釈の影響であるかも知れないが、ともかくも1961年には同出版社から新しい英訳『論考』が出版されている。





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