kuzukiria_blog(文学的)

読書とか、いろいろなお勉強(byウィキペディア)とか、文章(文学、芸術、哲学)とか・・・


2017-08

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『プルースト評論選1』③~作家の思考?

「サント=ブーヴに反論する」からさらに拾ってみます
ところでブログに書くのはたいてい読み終わっている本で
傍線などの印があるところを収録している感じです



作品理解と作家の「人間」の関係
 ──のあたりを前回見ていました
 http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-17.html

今回収録するのはここです

「サント=ブーヴに反論する」
p204

 忘れるべからず──書物は孤独の産物であり、
沈黙の嫡子(・・・・・)である。
沈黙の嫡子は、能弁の嫡子とはなんの関係もない。
何ごとかを言いたいという欲求から生まれ出た思考とも、
非難とか個人的見解とか、いずれにせよ
暗く濁った観念から生まれた思考とも無関係だ。

※沈黙の嫡子(・・・・・)
  ──「沈黙の嫡子」に傍点がついていること



ヽ(´ー`)ノ

評論家が作家の人間から作品を語ることは的はずれで間違い
──というのが前回の主旨っぽいものです
では今回の箇所からは何を読みとれるでしょうか?

「書物は孤独の産物であり、沈黙の嫡子である。
 沈黙の嫡子は、能弁の嫡子とはなんの関係もない。」


「書物」といってもいろいろあります
それこそプルーストが反論している当の相手
サント=ブーヴの評論も書物なわけです
ここでいう「書物」とは広義の書物ではなく
あるべき姿としての「書物」のようです
書物とはかくあるべきなのを忘れてはならない
──という感じかも
またプルーストのここでいういう「書物」は
ずっと文学作品を語っているわけなので
文学作品に限定されているもの、と見た方がいいですね

というわけでこの部分をもう少し
分かりやすいように言い換えてみます
・あるべき書物とは能弁とは関係ない
・書物(文学)は能弁とは無関係であるべき

──このように言い換えることができそうです

では「能弁」とは何か?

「何ごとかを言いたいという欲求から生まれ出た思考」
「非難」「個人的見解」
「暗く濁った観念から生まれた思考」

これらが「能弁」を具体的に表したもののようです
このような「能弁」は
・作者の思考
・作者という人間の思考、意見、見解

と言い換えられるはずです

人間は何かを何事かを言いたいという欲求を持っているものだし
自らの思想にもとづいて非難したい、個人的見解を主張したい
という欲求を持っている存在です

「能弁」が何をさすかというと
作者(人間)の思考、心──と言い換えることもできそうです

というわけで最終的には
・書物(文学)は作者(人間)の心とは無関係であるべき
というふうに言い換えることもできそうです

つまり前回見た箇所の
・評論家が作家の人間から作品を語ることは的はずれで間違い
と根底は同じといえます
作家の立場でいいかえると次のようになるでしょうか?
・作家が個人的人間としての思考を書物(文学)で語ることは間違い

ヽ(´ー`)ノ

ともすると作家(著者)は自分の意見を語りたがります
「人間」の業なのかもというくらい・・・
  (ブログだってそうだし)

たとえば、署名のない実用書の文章でさえ
著者個人の思考、意見、非難、
そして「暗く濁った観念から生まれた思考」
のようなものがまざっていることがあったりします
このような本に著者の個人的意見が不要なことは
明確な気がするけれども、それでもまじっているわけで・・・

著者、作者の署名がある書物の場合は
さらにややこしくなります
署名がある以上、自らの意見や思考を書いてもよい
むしろ、書くべきではないか
──という考え方もあり得そうな気がします

けれども、文学作品とは(ここでいう「書物」は文学)
論文(エッセー)と同じものなのでしょうか?

読者は文学作品を読みたいと思ったとき
論文を読みたいと思ったわけではありません
文学作品と論文を同一視することは
ビールとミルクを同一視することと大差ないはずです

ビールを頼んでミルクがでてくるとか
紅茶にミルクをいれようとしてビールをいれるとか
悲惨ではないでしょうか

文学作品を読んでいて作者の個人的思想や主張が入っていると
少し黙れ、と言いたくなったりすることもあります

政治的、思想的影響力がある文学作品というのはあります
けれどもそれは文学として影響力があるということであって
作品の中で登場人物、あるいは作者の地の文として書き込まれた
プロパガンダやアジテーションが
影響力を持つということではないような気がします

思考や思想と、文学、芸術とは、そもそも別個の存在
というふうにきちんと定義や認識をしておくことが大事
ともいえそうです
どちらも「書物」に「文章」で書かれるものであり
見た目的には区別しづらいものです
そして似て非なるものこそ
違うのに同一視されることによって混乱をもたらしがちです
名前が同じだったり(同じ単語で複数のものを表していることによる混乱)
見た目が似ていたり(論文と文学──どっちも書物)

まぎらわしいというかややこしい例も多いし・・・
たとえばニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』
中間的っぽいです
ニーチェは天才なので例外としてー
例外は何事にもあるけれどそれは天才に限られたことかも



プルースト以外、最近読んだ世阿弥も似たようなことを言ってる気がします

『花鏡』

「万能綰一心事」
 (まんのうをいつしんにつなぐ)

申楽も、色々の物まねは作り物なり。これを持つ物は心なり。
この心をば、人に見ゆべからず。
もしもし見えば、操りの糸の見えんがごとし。
かへすがへす、心を糸にして、
人に知らせずして、万能を綰ぐべし。



同じことではないけれども、つながりがありそうです
世阿弥は能の演技者(為手)の心構えをいっているのですが
演技者の「心」を見せてはいけないといっているのです

世阿弥の時代、演技者の個人的思考や意見を
作品に出すということは
言うまでもないほどあり得ないことだと思います
見るのは支配者たちであり
芸人たちは彼らに意見をするような身分ではないわけで
だから世阿弥は、プルーストがいうような
あるいは今日の書物に対していうような個人的思考や意見の混入を
心配する必要は全然なかったはず
彼が心配したのは、演技者個人の「作為」です

けれどもこれもまた、見せる作品はこのようにあるべき
という思想や意図という意味で個人的なものです

というわけで長くなったけど・・・

・作者の個人的な思考、意見、心、意図などが
 作品に混入するべきではない


・優れた作品(芸術)は作者という人間の
 個人的な心の働きから免れていることが条件


プルースト、あるいは世阿弥の芸術論として
こんなふうにいえるのではないでしょうか

ヽ(´ー`)ノ

この箇所のさらにつづきはこんな感じー
とりあえず収録しておきます

「サント=ブーヴに反論する」
p204

 忘れるべからず──私たちが書く本の素材というか、
文章の実質をなすものは、
現実からそのまま切り取ってきたものではなく、
非物質的なものであるべきだ。
だが、そもそも私たちの書く文章自体が、
そしてまた使われる挿話のたぐいも、
私たちが現実から、また現在から、
うまく脱出することができた最良の瞬間の、
透明な実質を元にして作り成されるべきなのである。
一冊の本の文体も説話の部分も、
そのときのおびただしい光の滴が
凝ったものにほかならないのだ。



ヽ(´ー`)ノ



プルースト評論選1』①~ぼちぼち読書の記録を考える
 http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-11.html

『プルースト評論選1』②
 ~「サント=ブーヴに反論する」作品理解と作家の「人間」の関係
 http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-17.html



 | HOME | 

FC2Ad

 

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

[ベケットギャラリー]

(ベケットの戯曲の抜粋ランダム)

リンク

このブログをリンクに追加する

カテゴリー

全ての記事を表示

→全ての記事を表示

最近の記事

『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと⑤
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと④(読書法のこと)
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと③
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと②
『失われた時を求めて』のお気楽読書のーと①
ipodが壊れて買ったにっき
老子の読書めも②
リヴァイアサン読書メモ2(感覚、造影について)
贈り物には羊羹・贈り物には羊羹・贈り物には羊羹
氷が手に着くのは何でなのかな
ラジオのジャズのこと
リヴァイアサン読書めも1

ブログ内検索

Lc.ツリータグリスト

カウンター

 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。