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2017-07

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読書メモ~『ウパデーシャ・サーハスリー』とか仏教思想とか

ほうれん草がいっぱいとれたので
なんとなく適当にキッシュを作ったらひどくまずかったり
残暑が厳しかったり

なんとなく、過去の読書ノートを眺めてみたり

ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)
(1988/04)
シャンカラ

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インド思想はおもしろいー
仏教も唯識とか楽しいけど

なんとなくみつけて眺めてた読書ノートは
シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』

サンスクリット、学生時代にお勉強したりしてたけど
辞書とかなくしたのは後悔してたり
あれ高いー・・・

で、このノート自体は、ふつうに岩波文庫のものー

勉強したノートも行方不明・・・

学生時代はPCはもってたけど、今ほど使ってなかったから
今だったら、勉強した内容とか、レポートとか
テキストファイルとかで残るのかなー

まあいいや・・・

●シャンカラ
『ウパデーシャ・サーハスリー』

p24
……
人は憂いと混迷に汚された「これ」(=非アートマン)の森を越えて、自己のアートマンに到達する。

p30
この一切万物は、美しい装飾品のように、無明のために〔アートマンに〕付託された限定である。それゆえにアートマンが知られたときには、一切万物は非存在となるであろう。

p31
賢者は、「私」と考えられているもののなかの「これ」の部分を、アートマンではないと理解して、捨てるべきである。「私はブラフマンである」(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』1/4/10)という〔天啓聖句のなかの「私」は〕前述の事情からすれば、捨てずに残された部分である。

統覚機能にのぼった一切のものは、〔認識の起きる〕すべての場合に、つねに私によってみられる。それゆえに、私は最高のブラフマンである。私は全知者であり、一切に偏在している。

p32
太陽光線に照らされると、赤色などの形相が宝石のなかに輝き出るように、私が存在すると、一切万物は〔統覚機能のなかに〕みえるようになる。それゆえに太陽光線によって、〔赤色などの形相が宝石のなかに輝き出る〕ように、私によって〔一切万物がみえるようになる〕。

p33
私(=アートマン)自身純粋精神を本性としている、おー意(=統覚機能)よ。〔私と〕味などとの結合は、お前の混迷に由来するものである。それゆえに、お前の努力によるいかなる結果も、私には属さない。私は一切の特殊性をもたないから。

幻影からなる活動を捨て、非存在を求める努力を止めて、つねに安らぎに到れ。私はつねに最高ブラフマンであり、解脱したもののように、不生にして唯一者であり、二元を欠いているから。

p40
全く不二にして無垢な知識があるとき、偉大な精神の持ち主は、憂いも混迷ももたない。憂いも混迷ももたないときには、行為することも、生まれることもない。これがヴェーダ聖典に精通している者の確信である。

p41
生類が監視者(=ブラフマン)であることは、それだけで確定したことであって、監視者と異なる〔かに見える〕のは無明に由来するのである。それゆえにその〔監視者との〕別異性は、「君は有である」という〔言葉〕によって除去される。

p42
目覚めるまでは、夢は真実であるように、アートマンの知識が〔得られる〕までは、身体とアートマンとの〔同一性〕は〔真実であり〕、直接知覚などが知識根拠であることや覚醒状態も〔真実で〕ある。

虚空のように、一切生類のなかに住しつつも、私は〔一切〕生類の諸欠点から自由である。私は目撃者であり、観察者であり、属性なく、清浄なブラフマンである。それゆえに私は絶対者である。

p45
それゆえに、無知を原因とする行為から不死となる望みはない。解脱の原因は知識であるから、解脱は知識以外のなにものにも依存しない。

p46
人は、光に照らされている身体を、誤って発光体である、と見なすように、見者(=アートマン)であるかのように現れている心(=統覚機能)を、「私である」、「見者である」と考える。

身体をアートマンと同一視するものは苦しむ。身体を持たないもの(=アートマン)は、熟睡状態にあるときと同じく、〔覚醒状態において〕本来苦しむことはない。見(=アートマン)から苦を取り除くために、〔聖典……などは〕、「君はそれである」といっているのである。

p49
アートマンは行為の主体である、という観念は、身体はアートマンである、という観念に基づいているから、誤りである。「私は何もしない」という観念は真実であり、正しい知識根拠に由来している。

p50
虚空が一切のものの中にあるように、私は、実に、その虚空の中にすら存在している。私は不変であり、不動であり、清浄である。不老であり、解脱しており、つねに不二である。

p51
目がないから、私は見ない。同様に、耳のない私が、どのように聞くことがあろうか。言語器官をもたないから、私は語らない。意(思考器官)をもたないから、どうして思考することがあろうか。

虚空のように〔一切に〕偏在する私には、飢えも渇きもなく、憂いも迷妄もなく、老衰も死もない。身体をもたないから。

p55
一切生類の中で、私とは別の、いかなる認識主体も存在しない。(私は)業の監督者であり、目撃者であり、観察者であり、恒常であり、属性をもたず、不二である。

p56
別異と不異、一と多、認識対象と認識主体、行動と行動主体、という〔区別は〕誤って想定されたものであって、どうして唯一な私にありえようか。

捨てるべきものも、取るべきものも、私にはない。なぜなら、私は不変であり、つねに解脱しており、清浄であり、つねに悟っており、属性なく、不二であるから。

このように、精神を集中して、一切万有をアートマンとして知るべきである。私が、各自の身体の中にあると知れば、人は解脱し、不動の聖仙となるであろう。

▼第十四章 夢と記憶

p57
夢のなかで乞食(こつじき)に歩いているのが見られた身体は、かれ自身ではないように、かれ(=アートマン)は覚醒状態において見られる身体とはまさしく別のものである。〔かれは客体であるその身体を〕見る主体であるから。


シャンカラはこんな人

▼シャンカラ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A9

初代シャンカラ(Adi Shankara)は、マラヤーリ人の8世紀に活躍した中世インドの思想家。梵我一如思想、不二一元論を提唱した。

概略 [編集]
「神の御足の教師」として知られた彼は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化する最初の哲学者であった。彼の教えは原因を必要とせず存立するところのブラフマン(梵)と、アートマン(我)は同一であるという主張に基づく。スマートラの伝統において、インド神話ではシャンカラはシヴァ神の異名である。

シャンカラは、講話と他の哲学者との議論を通して自身の教えを伝達するため、インドを旅行した。彼は、ポスト仏教としてのヒンドゥー教とアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の布教の歴史の発展において、重要な役割を担う4つの僧院を設立した。

今日においても全てが現存しているという、サンスクリットで書かれた彼の著書は、アドヴァイタ(非二元性)の教義を確立することに関する。シャンカラは教えを説く際に、ウパニシャッドや他のヒンドゥー教の聖典の広範囲から引用を行った。更に、サーンキヤ学派や仏教に似た考え方を持つ一派の批判に対する反駁の内容を自身の著書に含めた。(ウパデーシャサーハスリー)

シャンカラはヴェーダーンタの代表的な哲学者であるが、その思想は仏教の類似性が高く「仮面の仏教徒」と呼ばれることがある。彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担った。


唯識はまたみたいなあ・・・

▼唯識
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

▼瑜伽行唯識学派
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE

▼世親
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A6%AA

世親(せしん)は、古代インドの仏教僧である。世親とは、サンスクリットのヴァスバンドゥ(vasubandhu〈वसुबन्भु 〉、「婆藪般豆」、「婆藪般頭」と音写する。)の新訳名で、旧訳(くやく)名は、天親(てんじん)。現在のパキスタン、ペシャワールの人で、無著の弟。浄土真宗七高僧の第二祖。

初め部派仏教の説一切有部を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに努めた。

▼唯識三十頌
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98%E4%B8%89%E5%8D%81%E9%A0%8C

唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)は、無着の弟の世親が著した唯識の思想を要約した30の偈頌で、玄奘が訳したもの。

なお、このほかに漢訳されたものに、真諦が訳した「転識論」がある。

その後、護法がこの唯識三十頌を注釈して玄奘が訳した『成唯識論』は、法相宗(唯識宗)の重要な論典のひとつとなった。


あ、説一切有部もおもしろかった

▼説一切有部
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8

説一切有部(せついっさいうぶ、サンスクリット語:सर्वास्तिवादिन् sarvaastivaadin サルヴァースティヴァーディン)は、部派仏教時代の上座部から分派した一部派で、部派仏教の中の最大勢力。略称は有部。法(ダルマ、dharma)の実在説を採り、空を説く大乗仏教と対立した。


ていうか仏教は、思想がおもしろいー

信仰とか救いとか、情緒的なのはそれはそれでいいけど
中観派とかもおもしろいー

思想と信仰は別物だけど、
おなじ宗教、宗派、あるいは同一人物が
あれこれの要素に興味を持つ限りは
(ていうか、信仰なしなら宗教にならないと思うけど)
あれこれ兼ね備えていたり

この辺の本もよみたいなー






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