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2017-05

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『世界制作の方法』(ネルソン・グッドマン)読書①とティルセンの音楽

前回の記事で注文したCDと本が来ました
金曜日の夕方に注文して、
日曜の朝にCD、月曜の朝に本が届いていました
早かったかも

CDもいいなー
ということで、早速、CD聞きながら読書ーヽ(´ー`)ノ


CDはティルセンのこれー

Tabarly [Soundtrack]Tabarly [Soundtrack]
(2008/06/20)
Yann Tiersen、

商品詳細を見る


ヤン・ティルセンのサウンドトラックです
アメリ、グッバイ・レーニンのサントラと、どっちもとっても好きなので
これもやっと(そのうち買おうと思ってた)買いました

雰囲気が似ている所もあるけれど、
アメリやグッバイ・レーニンにくらべると、感傷的な所は減ってるかなあ?
とはいえ、映画自体はヨット関連のドキュメント(ジャケットかっこいいw)だから
それが感傷的なものだとは元々思ってなかったし、これもいいなー

しばらくこれ聞いていよー

で本はこれー

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)
ネルソン グッドマン

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)
(2008/02/06)
ネルソン グッドマン

商品詳細を見る


ざっと読んだら面白いーヽ(´ー`)ノ

買ったのは楽天だし、楽天カードのポイントで無料だから
楽天にも感謝はしてるけど、
これを見つけたのは、アマゾンのお勧めだったり・・・

なのでやっぱりアマゾンありがとうー

あのお勧め、結構役に立つから怖い・・・
(お財布的意味で)

前置きはおいといて、早速読書めもー




▼『世界制作の方法』(ネルソン・グッドマン)読書-まえおき

この人については、前回の記事でウィキペディアは調べたのでそっち

http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-154.html

目次は7章ありました

目次

第1章 言葉、作品、世界
第2章 様式の地位
第3章 引用にかんするいくつかの問題
第4章 いつ藝術なのか
第5章 知覚にかんするある当惑
第6章 事実の作製
第7章 レンダリングの正しさについて


とくに続いている感じでもないっぽいので
全部順番通り通して読もうとしないで
1章ずつ読んでいくのがいいかも

ていうか長いのでずっと続いてると、そのうち文字追うだけー
とかになりがちー

というわけで、当面1章しかよまないという気分で1章をメモ・・・

ていうかメモなしで一冊通読しても
読み終わったという記憶以外残らなかったりとかありがちー




▼第1章──言葉、作品、世界

本自体のタイトルと、章のタイトル自体もいいなあ・・・
これが興味深いと面白いっていうのは、ある意味当然かも・・・

あとは、傍線引いたところの収録と、メモとかあれこれ

(かっこ)や※がないところは一応引用のはず・・・


▼1 いくつかの問い

(カッシーラのこと)

多くの世界があるというのは、正確にはどういう意味でなのか。本物の世界をいつわりの世界から区別するものは何なのか。世界は何から作られているのか。世界はどのようにして作られるのか。その制作にさいして記号はどのような役割をはたしているのか。さらに、世界制作は知識とどのように関連しているのか。これらの問いを正面から取り上げなくてはならない。


まずはとりあげてる問題点とか

▼2 ヴァージョンとヴィジョン

われわれは唯一の現実世界に代わりうる多数の可能世界についてではなく、多数の現実世界について語っているのである。

しかしもし私が、あらゆる座標系から離れて世界はどのようかを語ってもらいたいと迫ったら、あなたは何と言えるだろうか。記述されたものが何であれ、われわれはそれを記述する方法に縛られている。

 運動を記述するにはたがいに代替できるいくつかの仕方、つまりすべてほぼ同じ用語で記され、たがいに決まりきったやり方で変換できるいくつもの記述がある。だが、これらの記述は単に、世界を叙述するには多くのやり方があるという事実の、些末で、いくぶんさえない例を提供するにすぎない。はるかに印象的なことは、いろいろな科学として、またさまざまな画家や作家の作品として結実した、ヴァージョンやヴィジョンが、はなはだ多種多彩であるという事実だ。

また、これらの作品、環境、われわれ自身の洞察、関心、過去の経験などによって形成されたわれわれの知覚にも、ヴァージョンとヴィジョンの非常な多様性がみとめられる。ここで架空の、あるいは疑わしいヴァージョンをすべて除外したとしても、残りのヴァージョンがまた新たにさまざまな格差を示すのである。ここには座標系を要素とするきちんとした集合などはないし、(科学に話を限っても)物理学、生物学、心理学をたがいに変換するための既成の規則などもない。またこれら科学のどれかをファン・ゴッホのヴィジョンに変換する仕方はないし、ゴッホのヴィジョンをカナレットのヴィジョンに変換する仕方もないのである。記述ではなく描写をおこなうこの種のヴァージョンは文字通りの意味では真理値をもたず、連言詞によって結びつけることができない。

(相対化することができる)

ここで再びわれわれは、「世界」(the world)を記述ないし描写することから、記述や描写について語ることへ注意を向け変えることになる。しかし今度は、問題とされたシステム間で翻訳が可能だという慰めさえ無くなるし、当面するいくつものシステムを編成するはっきりした組織なども無くなってしまう。

「世界」とはおそらくあらゆる正しいヴァージョンが記述するところのものだろう。

数多くの異なった世界=ヴァージョンは、唯一の基礎へ還元できるという可能性を要求ないし前提することなく、独立の意義と重要性とを持つ。

しかし、このような還元可能性には取るに足らぬ証拠しかないし、主張としても不明瞭である。というのも物理学自体、断片的で不安定な体系だし、目論まれている還元ということの本性や帰結が曖昧だからである。

私は構成や還元を過小評価する者では決してない。あるシステムを別のシステムへ還元できたなら、世界=ヴァージョン間の相互関係を理解するためのかけがえのない寄与になる。しかし、正しい意味で厳密な還元はまれであって、ほとんどつねに還元は部分的なものでしかないし、たとえ厳密な還元がおこなわれることがあるにしても、それが唯一のものであることはめったにない。

それぞれが正しくて、しかも対照をなし、すべてが唯一のものへ還元されるわけではない多くのヴァージョンが存在する。

さまざまな世界自体だけでなく、それらから成る宇宙も数多くの仕方で築かれているかもしれないのである。


ここはいろいろ重要なことが多いかも、ということで
収録が多くなったー

それにしても、読書したものを考えるのって、
本そのものから考えることは殆どなくて
たいてい、そのメモから考えるなあ、そういえば・・・


▼3 基礎はどれだけ堅固か

 世界の多数性という、カントになかった主題は、純粋な内容という概念は空虚であるというカントの主題と非常に似かよっている。一方は単一な世界をわれわれに拒み、もう一方はもろもろの世界を作っている共通の材料を否定するのだ。これらのテーゼは共に、ある鈍重なものを基底部に求めようとするわれわれの本能的欲求を平然と無視し、ややもすれば、われわれを無統制の状態に置き、つじつまのあわない幻想を長引かせるおそれもある。

ただ一言いうなら、構造を欠いた内容、概念化されない与件、特性を欠く基体などについて語ることはおのずから破綻をきたすのである。というのも、まさにそれを語ることが構造を押しつけ、概念化をおこない、特性を付与するからだ。知覚なき概念作用はたんに空虚であるが、概念作用なき知覚は盲目である(まったく無効である)。

世界を作っている多くの材料──物質、エネルギー、波動、現象──は、世界と一緒に作られる。しかし、何から作られるのか。どう見ても無からではない。それは他の世界から作られる。世界制作はわれわれの知るかぎり、つねに手持ちの世界から出発する。制作(メイキング)とは作り直し(リメイキング)なのだ。

世界全体の始まりあるいはその必然的始まりの探求は、神学にこれを委ねるのが最善である。(8)

註(8)──
……もろもろの世界のあい継ぐ発達史を構成することは、カントの規制的原理のようなものの適用をともない、それゆえ最初の世界の追求は時間の最初の瞬間の追求と同じくらい見当違いだと言えよう。


本書における私の関心はむしろ、ある世界を他の世界から構築するさいの工程(プロセス)にある。

堅固な基礎を求めたいという誤った希望が一掃され、世界なるもの(the world)がヴァージョンにすぎないさまざまな世界(worlds)に席を譲り、実体が函数へと解消され、与えられたもの(所与)とは把握されたもの(獲得物)であることが認められたあかつきに、われわれは、世界がどのようにして作られ、検証され、そして知られるのかという問いに直面する。


ふむふむー

というかんっじで、1章自体は、7までなのでそろそろ半分・・・

4はさらにこまかく分類されてたり

メモの誤字とか誤変換とか、なおす・・・


▼4 さまざまな世界制作の方法

(a)
世界制作の決してすべてではないが、その大半は、ばらすことや結びつけること、そしてしばしばこの二つを一緒に行うことから成っている。すなわち一方で世界制作は、全体を部分に分けること、種を亜種に分けること、複合体をその成分である特徴に分析すること、さまざまな区別を引くことから成っている。そして他方、世界制作は、部分や要素や下位集合から全体や種を構成すること、特徴を結合して複合体にすること、さまざまな結合をもたらすことなどから成っている。このような合成ないし分解は、通常、ラベル──名、述語、身振り、絵など──を用いることによって実行され、補助され強化される。こうして、たとえば時間的に多岐にわたる出来事がひとつの固有名のもとに集められたり、「ひとつの大将」あるいは「ひとりの人物」を作り上げるものとして固定されたりする。

同一指定は存在者や種への編成に基づいてなされる。

或世界における同一性ないし恒常性とは、編成された世界のなかに存在するものにかんする同一性なのである。

同一指定と同様、反復も編成に相対的である。

与えられた事例に適合しその前(さき)にまで及ぶ馴染みのパターン、ないしはパターンの変形として許容できるものを私が見つけたとき、ウィトゲンシュタインの意味で、「今や私は続けることができる」のだ。

機能するためには、ある集合をさしおいて別の集合を有意な種だとみなす必要がある。このようにしてのみ、たとえばエメラルドについてのわれわれの観測が規則性を示すのであるし、あらゆるエメラルドがミドオ色ではなくミドリ色であることが確証されるのである。




ところで、ここで「ミドオ色」と訳されているのは、
ウィキペディアの↓にある

▼グルーのパラドックス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

グルー(grue)とは、緑を意味する英語グリーン(green)と、青を意味する英語ブルー(blue)から作った言葉で、たとえば、「2050年までに初めて観察されたものについては緑(green)を指し、2050年以降に初めて観察されたものについては青(blue)を指す」と定義される(グルーは、緑と青の切れ目にどの時点をとるかで無数の定義がありうる)。


grue」──の訳語っぽいー

4はaからeまであるので続きー


(b)重みづけ

一方の世界に属するなにか有意な種がもう一方の世界には欠けているというより、それは有意でない種としてそこにも現存するのである。世界がたがいに相違するといっても、なかには、そこに含まれた存在者ではなくむしろ強調ないしアクセントが問題であるような相違があり、これらは存在者の相違に劣らず重要である。

強調の対照性がもっとも鮮やかな例は、美術に登場する。ドーミエ、アングル、そしてルオーが描いた肖像画のあいだの相違は、その多くが、どの側面にアクセントを置くかという違いである。

このような強調のうえの相違も、ついには公認された有意な種の相違になる。こうして、同じ人物を描いた複数の肖像画は、異なったカテゴリー図式に従って人物を配置していると見ることができる。



(c)順序づけ

 そこに含まれた存在者や強調の点では異ならないもろもろの世界が、順序づけのうえで異なることがある。たとえば、構成システムが異なった世界は、存在者が派生する順序が違う。座標軸から切り離してしまえば、何が静止しているとか何が運動しているとか言えないように、構成システムをおいては何ものも原初的でも派生的でもない。

また、地図や楽譜の空間的順序は、旅とか演奏の時間的系列にほんやくされるのである。

さらに、測定はすべて順序に基づいている。実際、適切な配列やグループ分けをほどこすことによってのみ、われわれは膨大な量の材料を知覚的あるいは認知的に処理することができる。ゴンブリッチは歴史的時間を十年、百年、千年と十進法で周期化する方式を論じている。

こうした編成の方式についてとくに指摘しなければならない点は、この方式が「世界のうちに見出される」ものではなく、世界へと組み込まれるものであるということだ。順序づけは全体や種の構成、分解、さらにそれらの重みづけと同様、世界制作に役割を果たすのである。



(d)削除と補充

 さらに、ある世界から別の世界を制作することには、ふつう大量の除去や充填──古い素材を実際に切り取り、新しい素材を実際に補充すること──がともなう。われわれがどれだけのものを無視しうるかには、事実上限界がない。またわれわれが実際に取り入れるものは通常暗示的な断片や手がかりから成っていて、それらには多量の補充が必要なのである。芸術家はしばしば巧みにこれを利用する。

見つけようと構えているもの(捜しているものあるいは期待に強く訴えるもの)こそをわれわれは見出すのだという事実、またみずからの追求を助けも妨げもしないものにはわれわれは盲目になりがちだという事実、これらの事実は日常生活ではありふれたことである。

(校正、記憶)

そしてわれわれが実際に知覚し覚えているもののなかにさえ、みずからが現に組み立てに従事している世界の建築術に適合しえない場合は、錯覚だとか無視してよいとかいって捨てられてしまう事物がある。

(科学者)

このようにして彼はみずからが選んだ概念に合い、みずからの普遍法則に従う世界を建てようと奮闘するのである。

だがおそらく補充のもっともめざましい事例が見出されるのは、運動の知覚の場合だ。知覚世界における運動は、時として物理的刺激に対する複雑で豊かな肉付けから生まれる。心理学者はつとにいわゆる「ファイ現象」を知っていた。注意深く制御された条件のもとで、二つの光点が短距離をへだて、すばやく相次いで点灯されると、見るものには通常、第一の位置から第二の位置への道に沿って一つの光点がとぎれずに運動するのが見える。



解らない用語はウィキペディアでしらべたー

▼ファイ現象
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E7%8F%BE%E8%B1%A1

ファイ現象 (Phi Phenomenon) とは、静止画の連続によって引き起こされる仮想の運動を知覚する現象のこと。仮現運動を引き起こす代表的な現象。1912年にマックス・ヴェルトハイマーが発見し、「Experimental Studies on the Seeing Motion」に記述されている。映像やフィルムアニメーションの知覚に関する議論ではよくベータ運動と混同されがちだが、これは定義としてはまた別の現象であって映像の知覚とは直接関わるものではない。


便利ー

(e)変形

いままで各種の変化を調べて来たが、その最後として、造り治しあるいは変形がある。これは観点次第で、訂正とも歪曲とも考えられるものである。

端が内向きの矢になっている直線は長く、これと物理的ながさが等しい外向きの矢は短く見えるよう、視覚は変形を加える。

といった次第で、以上が世界の作られ方である。私はその仕方が以上だけだとは言っていない。


4はこれでおわりー


▼5 真理とのいざこざ


 分割し、組み合わせ、強調し、順序づけ、削除し、充填し、肉づけし、歪曲さえする自由。こうしたあらゆる自由の目的は何であり、それを縛るものはないのだろうか。世界制作が成功するための基準は何なのか。

ヴァージョンが言葉でものされ、言明から成るかぎり、真理ということが重要かもしれない。しかし、真理は「世界」との合致によって規定ないし検証することはできない。

ヴァージョンは頑なに固められた信念やその指針をなにひとつ損なうことがない場合に、真であるとみなされる、といった方がよい。ある時点における頑なな信念としては、論理法則についての長命な思念、近ごろおこなった観察についての短命な思念、さまざまな程度の鞏固さ浸みこんだ他の確信や偏見があげられよう。

たとえば「地球は静止している」という信念は、ドグマという身分から、指針次第で真偽の決まるひとつの身方へ移行したのである。

 真理はもったいぶった厳格な主人であるどころか、従順で素直な召使いなのだ。

彼が明らかにした法則は発見したものにちがいはないが、同様にそれは彼によって制定されたのであり、彼が描いたパターンは識別されたものであると同時に、彼がデザインしたものなのだ。

そのうえ、真理は語られたものにのみ属し、また文字通りの真理は文字通りに語られたものにのみ属する。

文字通りに語られたものだけでなく、隠喩的に語られたものもまた世界を作るのであり、また文字通りにせよ隠喩的にせよ、語られたものだけでなく、例示され表出されたものによっても──語られたものだけでなく示されたものによっても、世界は作られる。

モンドリアンの絵のような非具象派の絵は、何ひとつ語らず、外延指示も描写もしないし、また真でも偽でもないが、しかし多くのことを示している。

というのも理論がそなえる法則の真理は、理論の特殊な一つの特徴にすぎず、また別の著書で論じたように、説得力、簡潔さ、包括性、全システムの情報量や編成力の方が、しばしば理論的重要さにおいて優っているからである。

「真理を、真理全部を、ただ真理のみを」というモットーは、それゆえ、世界制作者にとって厄介で無力な方針だろう。真理全部では多すぎるだろう。それはあまりに莫大で、変幻定めなく、瑣末な事柄でぎっしりだ。真理だけでは少なすぎるだろう。というのも正しいが真ではない──偽の、または真でも偽でもない──ヴァージョンが存在するからであり、また真であるヴァージョンにとってさえ、多大さがより重要な場合があるのだから。



▼6 相対的実在

むしろわれわれは、実在する世界を、代替しうる正しいヴァージョン(あるいは、なにか還元可能性とか翻訳可能性といった原理によって結びつけられたヴァージョン群)のどれかひとつに対応する世界だと解釈できるかもしれない。そして他のあらゆるヴァージョンは、この同一世界のヴァージョンであり、標準的ヴァージョンから相違するものとして説明がつくのかもしれない。物理学者はみずからの世界を実在する世界とみなし、他のヴァージョンに加えられた削除、付加、不規則性、強調は、知覚の不完全さ、実際活動の差し迫った必要、あるいは詩的放縦のせいだとする。

市井の人にとって、科学、芸術そして知覚に由来するたいていのヴァージョンは、科学的・芸術的伝統の断片とみずからの生存競争の所産から彼が間に合わせに作った、馴染みの便利な世界とは、どこかしら異なるものだ。実際、たいていの場合、実在の世界とみなされるのはこうした世界にほかならない。というのも世界にかんする実在性(リアリティ)は絵画における写実主義(リアリズム)と同様、大部分習慣の問題だからである。
 とすると皮肉なことだが、ひとつの世界を求めるわれわれの情熱は、さまざまな場合、さまざまな目的により、多くのさまざまな仕方で満たされることになる。運動、派生、重みづけ、順序だけでなく、実在さえも相対的なのだ。

つけ加えていうと、ここで多種多様な世界をメタ哲学的に熟察している哲学者の私は、頑固一徹な、デフレ策をとる唯名論の要求をみたすヴァージョンだけが、哲学大系を構築する際の目的にかなうと考えている。

代替可能な世界をすすんで認める態度は、探求の新しい大道の通行を自由にし、そうした大道の所在を示唆するが、とはいえあらゆる世界をなんでも歓迎する態度からは何ひとつ世界は作り出されないことを付言しておこう。




▼7 知ることについての注

私がここまで述べてきたことは、知識の本性にかかわっている。

知ることの多くは真なる信念とは別のものを、あるいはそもそも信念とは別のものを目指している。

……このようなときに生じるのは、信念の変化ではなく、洞察の鋭さ、あるいは理解の幅の増大である。

さらに、世界が発見されるものであるのに劣らず制作されるものでもあるとすれば、知ることは報告することであるばかりか、作り直すことでもある。

すでに指摘したように、運動を知覚することは、しばしばそれを生み出すことである。法則を発見することは、それを起草することをともなう。パターンを認識することは、ほとんどパターンを発明し押しつけることである。理解と創造をは手を携えているのである。


1章はここまでー

てことでざっと読んで傍線ひいて、傍線箇所を収録したから
これからじっくり眺めようー

改行も加えよう……






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