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2017-04

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『プロティノス全集』(エネアデス)読書めも③~グノーシス派に対して

プロティノス全集の2巻目読書中ー

てことで、ひきつづき読書メモ・・・
うつしながらのほうが頭に入るし、
再利用には便利(誤字脱字は再利用時にチェックすれば)だし


『プロティノス全集』(エネアデス)読書めも①
http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-128.html
『プロティノス全集』(エネアデス)読書めも②
http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-131.html




▽9 グノーシス派に対して

  1

 かくて(以上で)われわれに明らかになったように、善者の本性は単純で、したがってまた第一位であり──というのは、すべて第一位でないものは、単純でないのだから──そして事故の内に何ものも含有しないで、何か一つのものであり、したがって、一者と呼ばれているものの本性も、これと同じものであるので〔なぜなら後者も、何か別のものであってその上に一であるというわけではないし、前者も、何かであってさらに善であるのではないのだから〕、かくして、われわれが「一者」と言うばあいも、「善者」と言うばあいも、同一の本性(もの)が意味されているのだと理解されなければならない。

また、われわれはそれを「他者の内にない」と言う。なぜなら、すべて他者の内にあるものは、他者から派生したのでもあるのだからである。

 かくて、それが他者から派生したのでもなく、他者の内にあるのでもなく、またいかなる意味においても複合体でないとするならば、もはやそれの上位には何も存在しないということが、必然である。
 それゆえ、別の始原をさらに求める必要はない。これをこそ真っ先に立てて、それからこれの次にヌース(知性、英知)、つまり第一義的に直知しているものを、それからヌースの次に魂を置かねばならない。

 なぜなら、もし人々が少ないものを奥ならば、彼らは、魂とヌースとが同一のものであると主張するか、それともヌースと第一者とを同一のものとするか、どちらかであろうだろう。だが、これら(三者)がそれぞれ異なることは、すでに多くの箇所で示された。


  2

 それゆえ、これら(三者)より多くのものをも、またかの世界のものたちが受付もしない余計な思考上の区分をも、かの世界に設けてはならないのであって、ただ一つの、常に同一者で同一状態にあり、どの方向にも傾くことなく、その父(一者)を自己の力にかなう限りは模倣しているヌースを立てるべきである。
 他方われわれの魂については、次のように考えるべきである。すなわち、それの一部分(一能力)は常にかの世界にとどまり(1)、また一部分はこの世界に関係している。そして残りの一部分は、前二者の中間に位置する。というのは、われわれの魂は一つの本性(もの)ではあるが複数の能力を有していて、ある時には魂全体が自己の最良部分と有るものの最良部分にしたがって動くのだが、ある時には魂の劣った(最劣の)部分が下方へ引きずられて、中間的部分をも一緒に引きずるのである。それというのも、魂全体を引きずりおろすことは、許されていないからである。

 (1)われわれの魂の最良部分は常に直知界にとどまるという理論は、プロティノス独特のものであった。

 そしてこの禍が魂にふりかかる理由は、それが最美(最良)の場所にとどまっていなかったからである。その場所には、(何かの)部分ではなく、またわれわれの魂ももはやそれの部分ではないところの魂(2)がとどまっていて、世界の身体には、後者が──前者からもらって──持ちうる限りのものを与えて持たせ、他方それ自身は無為のまま(何にも煩わされないで)静止し続けるのである。というのは、この魂は計画を立てたり、何らかの修正を行ったりしながら(世界を)管理するのではなく、自己の前の(上位の)ものを観照することによって驚嘆すべき力を得て、これによって世界を整頓しつつ管理するのだからである。なぜなら、その観照に没入すればするほど、この魂はより美しく、より強力になる。そしてそこから得て、自己の後のものに与え、かくして、いわば(常に)照らしながら常に照らされているのである。

  (2)この「魂」は、世界霊魂(の一面としての純粋霊魂)


   3

 かくてこの魂は、常に照らされ、普段に光を所持していて、それをその次のものに授ける。そして次のもの(この世界)は、この光によって常に(永久に)維持され、養われて、能う限りは生を楽しむ。それはちょうど、どこかに火があって、それを取り囲むもので、その能力のあるものは、暖められるようなものである。
 ただしこの火には限度がある。



  4

またもし彼らが、彼ら自身の言い方にしたがって、この魂は「過ちを犯した(ためにこの世界を作った)のだ」と主張するならば、その過ちの原因を彼らは述べるべきである。

 他方われわれの主張するところでは、(世界を)作った(魂の作用)は、傾き(よろめき)ではなくて、むしろ傾かないことなのである。

また、かの魂はいつ世界を消滅させるのであろうか。というのは、それがすでに(世界を作ったことを)後悔しているのならば、なぜ(世界を消滅させることを)猶予しているのだろうか。

また、この世界には不快なものがたくさんあるから、出来ばえが悪いという主張も、容認されるべきではない。なぜなら、これはこの世界に不当に大きい価値を付与する人たちの意見である。つまり、この世界は直知界の模像にすぎないのに、彼らはこれをかの世界と同一のものでなければならないと要求しているわけであろう。


  5

また、彼ら自身の魂は、最も低劣な人間のそれにいたるまで、不死で神的であると主張しながら、全天とそこにある星辰とが、(地上のものよりも)はるかにすぐれた純粋な元素から成り立ちながら、不死なる魂にあずかっていることを否定するとは。

さらに、彼らがあのような第二の魂を──彼らが諸元素から合成するところの魂を──ひそかに持ち込んでいることも、不合理である。なぜなら、単なる元素からの合成が、どうして何らかの生命をもちうるであろうか。

しかし彼らは、この制作物つまりこの地(この世界)を尊重しないで、彼らのために「新しき地」が設けられており、彼らはここからそこへ行くよう予定されている、と主張する。そしてこれ(新しき地)は、この世界の原理(原型)なのだそうである。しかしながら、彼らはなぜそこへ、彼らが憎悪する世界のその原型へ、行く必要があるのだろうか。

  6

それというのも、総じて彼らの諸説はプラトンから取られているのであり、他の部分、つまり彼らが独自の哲学を打ち立てようとして新たに手がけた限りの部分は、真理の外に見出されるのである。

また彼らは直知される存在の名称を多数羅列することによって、精確なことを発見したという評判が得られるように思っているけれども、その実彼らのやっていることは、まさにこの多数ということによって、直知的なものを、より劣等なものに近づけ(類似させ)ることになる。本当は、かの世界では可能な限り少ない数を求めねばならないのであり、第一者のすぐ次のものにすべてを帰して、それでおしまいにすべきなのである。


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