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2017-08

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『プロティノス全集』(エネアデス)読書めも②

けっこう読書も今のところはかどってるかも
ていうことで、①が長くなったので、分割して続き

『プロティノス全集』(エネアデス)読書めも①
http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-128.html

プロティノス全集〈第1巻〉プロティノス全集〈第1巻〉
(1986/11)
プロティノス

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エネアスⅡの読書ー

これは天についてとかで、この辺の隔絶した雰囲気が好きだったり
プラトンのティマイオスとか

まだまだ1巻(全部で4巻)だけど
エネアスは6個だから、1/6は読んだことにー



▼エネアスⅡ

▽1天について



 宇宙は、身体をもってはいるが、過去にも常に存在したし、将来も(永久に)存在するだろう、とわれわれは主張しているのだが、その原因を神の意志に帰するならば、第一に、われわれはおそらく真実を述べているのではあろうが、何ら明確なことを呈示してはいないことになるだろう。



  3

 さてそれでは、どのようにして世界の素材と身体は、つねに流動していながら、宇宙の不死性に対して協力的でありうるだろうか。
 いやそれはね──とわれわれは答えることができよう──それ(世界の身体)がそれ自信の内で流れているからなのだ。なぜなら、外へは流れでないのだから。

 かくして、一方われわれの(身体の)諸部分は、一定の形態をまとっていて、成分(の流出)をせき止めることができないので、存在しつづけるためには、他者から部分を要求するのだが、他方、かの所(天)からは何も流出しないのだとすれば、(他から)養われる必要は全然ないわけだ。


  4

 というのも(よりすぐれた物体といったわけは)、なるほどアリストテレスも正当に名づけたように、(地上での)炎は一種の「沸騰」であり、いわば飽満したために威張っている火であるが、他方かの所の火は、一様な、静かに落ち着いた、星々の本性に相応する性質のものである。
 しかし(天が永久であることの)もっとも重要な理由は、次の通りである。(宇宙の)魂は裁量のものたち(直知界のもの)に隣接する所に位置していて、驚嘆すべき力を得て動いているので、ひとたびこの魂の内に置かれたものがなにか、それから逃れ去って、非存在のうちへ没することが、どうしてできようか。そして、神(つまりヌース)から飛び出てきた魂を、いかなるきずな(つなぎとめる力)にもまさって強力であると考えないことは、万有を抱きかかえる(保持する)原因について無知な人間のすうrことである。


また前者がつねに(永久に)変化するとしても、世界は(永久に)存続する。

また、魂の(世界を作ったことについての)後悔、(そしてそのために魂が世界を滅ぼすだろうという説)が虚妄であることはすでに示されたが(4)、その理由は(魂による世界の)管理が、労苦を伴わぬ、(魂に)無害なものだということであった。

 (4)魂の後悔はグノーシス派の説である。



  5

 ではどうして、かの所(天)にある諸部分は(永久に)存続して、ここ(下方)の諸元素と生きものは存続しないのか。
 それは、プラトンがいうように(7)、前者は神によって生じたのに対して、ここの生きものたちは、かの神によって生じた神々によって生じたからである。そして、かの神によって生じたものが滅びることは許されぬ定めなのである。(8)

  (7)『ティマイオス』。この神はプラトンによって「制作者(デーミウールゴス)」とも呼ばれた。プロティノスはこれをヌースと解釈する。「神々」は天と天体との魂であろう。
  (8)『ティマイオス』


 これ(このプラトンのことば)は、次のように言っても同じことである。天の魂は(世界の)制作者に隣接している。なお、われわれの魂とても同様である。そして天の魂の本体からそれの影像が出て──上方あらいわば流れ出て──これが地上の生きものを作るのである。
 さて、このような魂(あの影像)が、かの(天の)魂を真似る(地上の生きものを制作する)のであるが、しかしより劣悪な物体(元素)を制作に用いるために、またより劣悪な場所で(制作する)ために、そして組成に用いられるもの(諸元素)がじっととどまっていることを承知しないために、力及ばず、ここの生きものは永久には存続できないし、また物体(身体)も、もう一方の魂(天の魂)が直接にそれらを支配するばあいと同じようには、(十分に)支配されないのである。

というのも、天の下のもの(地上のものなど)は、もはや天の部分ではないのである。

 これに大して、われわれ(人間の身体)は、天の神々(天体)と天自身から与えられた魂によって形成され、この魂によってまた、われわれは身体と結ばれているのでもある。というのは、われわれがそれによってわれわれ自身であるところの、もう一つの魂は(4)、われわれが〈ある〉ことのではなくて、〈よくある〉ことの原因なのである。とにかくそれは、われわれの身体が生じた後にやってくるものであり(5)、われわれが〈ある〉ことに対しては、理性的思考によって、些少の援助をするだけである。

  (4)理性的な魂。
  (5)ストア派の理論では、理性はわれわれが七歳の頃に生じる。



  6
 しかし、(天は)火だけなのかどうか、またあそこ(天)から(何かが)流れ出るので、(天体は)栄養(の補給)を必要とするのかどうかを、今度は考察しなければならない。





▽2 天の動きについて


  1

 なぜ(天は)円く動くのか。
 それは、(天が)英知(ヌース)(知性)をまねているからだ。
 で、その動きは何の(動き)か、魂のか、身体のか。


 しかし他方、魂が(天を)導いて回転させるのだとしても、(魂が)疲れることはないだろう。なぜなら、魂は天を(無理やりに)引きずるのではないし、(天の火の)本性に反するように(回転させるの)でもない。なぜなら、「本性(自然)」とは全体的な魂によって定められたことなのだから。
 それにまた、この魂は、その全体があらゆる場所に偏在しており、世界全体の魂であるから(世界の)部分ごとに分断されてはいないので、この魂は天に対しても、天にできる仕方で、あらゆる場所にあることをゆるす。そして天にできるのは、すべてのもの(天のすべての場所)を順次たずね、訪れることである。

いやむしろ、魂の側から天をいつも魂自身へと導いて、このいつも導くということにおいて、いつも(永久に)天を動かすのだ。しかも他の場所へ動かすのではなくて、魂自身へ向かって、同じ場所で動かすので、まっすぐにでなくて、円く導くことになり、どこであろうと(天の火が)行く先々で魂をもつことをゆるすわけである。


  2

さてしかし天は、どこにあろうとも、あらゆる場所であ魂をもつのだとすれば、どうしてぐるぐるまわる必要があるのか。
 それは、魂が単にそこに(ある特定の場所に)だけいるのではないからだ。


ただし、「中心」を物体のばあいと魂の本性のばあいとで同じ意味に解してはならない。魂のばあいには、中心とは魂のその他の部分がそこから出て来る所であるが、物体のばあいには、場所的な意味である。だから(ここでは)「中心」を類比的に理解しなければならない。つまり、あそこ(魂)に中心があるように、ここ(この世界)でも中心がなければならないが、こちらだけが球形の物体(この世界の)中心なのである。つまり、前者(魂)がその中心のまわりをまわるように、後者(世界、天)もそうするのである。
 さてそこで、魂に中心があるとすれば、魂は(中心である)神のまわりを走りめぐり、彼の周囲で彼を愛し、自分にできる限り神のまわりに自分を置くだろう。なぜなら、すべてのものが神に依存しているのだから。しかし、魂は神のもとに行けないので、神のまわりをめぐるわけである。
 では、どうして(宇宙の魂)だけでなく)すべての魂がそうしないのか。
 いや、それぞれの魂が、それぞれのいる場所で、そうしているのである。





▽3 星は(地上の出来事を)引き起こすかどうかについて


(註)
ロンギノス(→ゼノビア)





ひきつづき読書中ー

ここまでで、プロティノス全集第一巻は終りー

次からは第2巻・・・


▼エネアスⅡ

▽4 素材について


  1

 いわゆる素材は「下に横たわる何か」(1)(基本)であり、形相の「受け皿」(受容者)であるという限りでは、このような本性(素材)の観念を持つにいたったすべての人たちが、それ(素材)について、このだいたいの説を主張しており、ここまでは同じ(思考の)道を歩んでいる。


  (1)アリストテレスのことば。自然学


▽5 可能的なものと現実的なものについて


▽6 実体について、あるいは性質について


  1

 いったい有(オン)(有るもの)と実有(ウーシアー)(実体)とは異なるのか。

それは、かの所ではすべてのものが一つのものであるが、ここでは(かの所のものの)映像が分断されて別々のものになっているからである。



▽7 通全融合について

解説

 通全融合(全体的融合、di' holon krasis)とはストア派の用語であって、「物体が物体を融」などとも表現される。


▽8 視覚について、また遠くのものが小さく見えるのはなぜか

  1

 はたして遠方のものは(実際よりも)より小さく見え、そして遠く隔たっているものは少ししか離れていないように思えるのだろうか。他方また、近くのものはあるがままの大きさに見え、そしてちょうど実際の距離だけ離れているように見えるのだろうか。
(一説によると)遠くのものが見ている人たちに(実際よりも)より小さく思えるのは、光が視力(視野)に合わせ、瞳の大きさに合わせて収縮しようとするからである。
 また(第二の説によると)、見られるものの素材が遠方にあればあるほど、形相はそれだけいっそう(途中で素材から)いわば純化されて(より純粋な姿で、目に)到達する。その際、性質と同じく大きさそのものも形相になる。そこで、(遠方のもののばあい)対象の条理(ロゴス)(形相)だけが到達する(ので小さく見える)というわけだ。
 あるいはまた(第三の説によると)、われわれが(物の)大きさをどれだけあるか知覚するのは、(視覚が物の)各部分を逐一通過し、概観することによってである。

 あるいはまた(第四の説によると、視覚によって)第一次的に観られる対象は色であって、大きさは付随的に見られるだけである。


  2

 次に、(目が対象を見る時の)視角が小さい(狭い)から(より遠方のものは、より小さく見える)という(第五の)説については、これが正しくないことは、すでに他の箇所でも述べられたが、今(ここで)も次の点を指摘しておかねばならない。



つづくー

『プロティノス全集』(エネアデス)読書めも③
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