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2017-04

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『プロティノス全集』(エネアデス)読書めも①

なんとなくプロティノス読みたくなったり
てことで、全集を図書館で借りてきてみたー

プロティノス全集〈第1巻〉プロティノス全集〈第1巻〉
(1986/11)
プロティノス

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▼プロティノス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%82%B9

プロティノス(Plotinos 205年? - 270年)は、新プラトン主義(ネオプラトニズム)の創始者といわれる哲学者である。

エジプト出身で、アレクサンドリアで学んだ後、ローマに移住。哲学の教師になる。主著に『エンネアデス』がある。ローマ皇帝ガリエヌスと交流があった。

プロティノスはプラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)より500年以上も後の生まれであり、当時は様々な神秘主義思想が唱えられていた時代である。ただしネオプラトニズムの創始者とはいっても、プロティノス自身には独自な説を唱えたという意識はなく、プラトンの正しい解釈と考えていた。

[編集] 一者

プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。 プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。 万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである(プロティノス自身は生涯に数回体験したという)。


[編集] 影響

神秘主義的な思想は、初期キリスト教のアウグスティヌスらにも影響を及ぼし、キリスト教神学に取り入れられたといわれる。プロティノスの著作自体は中世の西ヨーロッパには伝わっておらず、ルネサンス期の人文主義者・フィチーノがラテン語に翻訳したことで再発見された(1492年に刊行)。フィチーノを中心とするイタリア・ルネサンスの異教的な思想を育み、また後世の神秘思想にも影響を与えた。

また、プロティノスと同時代のグノーシス主義にも影響を及ぼしたが、プロティノス自身は「神が人間の方へ降りてくることはない」として(グノーシス主義を含む)キリスト教を批判していたという。


[編集] エンネアデス

エンネアデス(Enneades)は「一なるもの、善なるもの」「魂の不死について」などの論文を、プロティノス死後に弟子がまとめたもの。Enneaは9を意味し、プロティノスの残した54の論文があったので、6巻にそれぞれ9論文を収めたもの(9は完全数と考えられた)。「エネアデス」とも表記される。






▼プロティノスには関係ないまえおき


全集を借りたりする場合のよくありがちなことというと・・・

やっぱり解題とか最初から読んだ方がいいかも
  ↓
どこで生まれてどうのこうので、基本的に伝記好きじゃないからうんざり
  ↓
放置ヽ(゜∀゜)ノ

・・・と今まで散々やってきたことなので
せめて自らの過去からは学習すべき

伝記も三国志とかなら好きだけど、
だいたい学者(作者)とその本人の生活は別って
ニーチェも、プルーストもいってるし
たいてい、つまんないのw
おもしろいこともおきなければ、楽しい人でもない上に
人格もすぐれているわけでもなく
ようするに作品以外に取り柄がとくにない──

っていうか、作品が評価されていれば、その要素で充分優れているわけで
あれもこれも──とはなかなかいかないんだから
何かにすぐれた人ほど、そのすぐれた面以外は劣る、
と考えた方が、しぜんな気がするけど
権威主義というか英雄崇拝というか、そんなのに通じる見解がよくあったり
偉人伝とかもよくあるけど
偉人が、その仕事以外にも、人格が優れている、ということにしないと
気が済まないみたいなのはどうにもー

ってプロティノスからそれた;;

というふうに、伝記から入るのは弊害があることも事実かも

そりゃー、プロティノスが、今現在アメリカの大学で教えてる人
とか勘違いするのはまずいけど
昔のプラトンの影響をうけたえらい哲学者、くらいの認識があれば
何人兄弟(知らない、書いてあるかもしらない)だとか、
どこで生まれたとかは、
学者には必要でも、趣味で読む場合(ようするに興味があるのは内容)
には必要ないし・・・

って全集って一応専門家用なのかな?
本格的に専門家なら原語で読むだろうけど・・・

まあいいやヽ(゜∀゜)ノ


あと・・・

さらにプロティノスから離れるけど
入門書の書き方について

専門家と一般人は興味を持つところも違うということ
専門家が筋道たてて最初に基礎としておさえておくべきこと
を、入門として設定すると
一般人的にはおもしろくなかったり

入門書には、専門家見習い用と、一般人用のと
別の種類があると思うけど
私が個人的に興味あるのは、後者だし
前者は、教職でもなければ関係ないことだし

そして後者の方法については、奥が深いと思うんだけど・・・

プロティノスはともかく、プラトンくらいなら一般人用入門書もありえるけど
これをどう書くか?
どう書くのがよりよいか?

うーん、奥が深いー

たぶんヽ(´ー`)ノ






▼全集の内容

『エネアデス』(プロティノス著)の全訳

──がこの全集の内容で、
慣行に従ってポルピュリオスの「プロティノス伝」も訳出

あとは、田中美知太郎「プロティノスの精神的風光」
プロティノス入門(水地宗明)とかがあった・・・

で、おまけを読むのは全部読み終わることがあったら
そのときでいいからそれはそのときにでもー

おまけだけ読んで本文よまないよか
本文読んでおまけよまないほうが、全然いいはずだし






▼というわけで、エネアデス


「プロティノス入門」(水地)より

p48

『エネアデス』
プロティノスの書いた五十四篇の論文を……配列したものが『エネアデス』である。

……
「エネアデス」Enneadesという書名は、論文を九篇ずつ一括したものが六つあることに由来する。つまり何であれ九つ(ennea)で一組のものを、昔のギリシア語で「エネアス」(enneas)と言うのだが、これの複数形「エネアデス」がそのまま書名となったものである。


完全数がどうのこうのー

ていうか入門も、生涯以外はおもしろいかも
でも本文優先ー;;

とりあえず書名や章名についてわからないのは嫌だったから
わかって安心ー

エネアデスさんやエアネスさんがお話してる
──みたいなプラトンの書名風ではないのはわかったヽ(´ー`)ノ




▼『エネアデス』
プロティノス

▼エアネスⅠ

▽1生命あるものとは何か、人間とは何か

 快と不快、恐怖と大胆、欲望と嫌悪そして苦痛、これらは(われわれ人間の)どの部分に属するのであろうか。それらは魂(そのもの)にか、あるいは肉体を使用している魂にか、それとも魂と肉体から成る第三のものにか、そのいずれかに属するのであろう。


 2
 しかし、まず魂を取りあげて、魂と魂の本質は別なのかどうか考察する必要があるであろう。というのも、もし魂とその本質が別であれば、魂は(二つ以上の要素が集まって)合成されたものであることになり、そのばあいには、もはや、魂がすでに述べた緒情念を受容したり所有したりするのも不合理ではないことになるであろうし──
……

 これに大して、もし魂と魂の本質が同じであれば、魂は或る種の形相(エイドス)であることになるであろうし、その魂としての形相は、自分が他に与えることのできる左様はすべてこれを(他から)受け取ることなく、自己自身のなかには、自己自身にもともとそなわっている働きのみをもっていることになるであろう──
……というのも、もしその魂としての形相がそのようなものであれば、「それはまた不死でもある」といってまちがいではないからである。

……
さらにまた、その魂としての形相は感覚することもなければ、思考の働きや思いなしがその形相にかかわることもないであろう。なぜなら、感覚とは物体(つまり感覚対象)の形や状態の受領であり、思考の働きと思いなしは、感覚に基づいているからである。
 だが、直知作用についてはどうであろうか。


つまり、私が言いたいのは、「形相(としての魂)の或る部分は肉体から分離していて、それが肉体を使用する部分なのであるが、別の部分は何らかの仕方で肉体と混じりあっており、その部分は序列において使用されるものの立場へと堕ちこんでいる。だから哲学は、この肉体と混じり合っている部分をも肉体を使用する部分へと向けかえるとともに、肉体を使用する部分を(肉体との結びつきが)絶対に必要とはみなされない限り、それの使用する肉体から遠ざけて、その部分が常に肉体を使用するとは限らないようにしなければならない」のである。



……
 だが、さらにわれわれは、この魂と肉体の混合の仕方についても、調べてみなければならない。おそらく、この両者の混合は不可能であろう。それはちょうど、白さと線のように、「まったく別のあり方をしているものが混じり合っている」と言うようなものなのである。
 他方、「(魂が肉体のなかに)織り込まれている」という(プラトンの)ことばは、「織り込まれているものを同じ影響を受けるものにする」という意味で言われているのではない。



……
 おそらく、多くの要素から成る人間の存在全体のなかには、たとえわれわれにより貴重なものがそなわっているとしても、われわれは、これこれしかじかの生命あるものから離されているのではないからであろう。
 なお、魂に固有な知覚能力は、直接に感性的なものを対象とするのではなくて、むしろ、感覚によって生命あるものに生じる印影を把握するのでなければならないのである。

それゆえ、外敵なものを対象とする感覚は、魂のこの知覚の影であって、この知覚は実有性(ウーシアー)において、より真なるものであり、ただ形相のみを外的な影響を交えずに純粋に把握する観照活動(テオーリアー)なのである。まことにこれらの形相に基づいて──魂のみがこれらの形相から、生命あるものの指導権を得るのであるが──思考や思いなしや直知の働きは、その活動を行うのであって、ここにおいてこそ、われわれは何にもましてわれわれなのである。(1)

  (1)真の意味での「われわれ」すなわち真の意味での人間であるということ。

 これに大して、それらよりも先にあるもの(2)は、われわれのものなのであって、実にわれわれはここから上へとのびている部分であり、生命あるものの上に君臨しているのである。だが、その全体(すなわち「われわれ」と「われわれのもの」から成る全体)を生命あるものと呼んでも、なんら支障はないであろう。ただし、その下位の部分は(肉体と)混じり合っているもので、(われわれが)「ここから」(と呼んだ部分)が、思うに、真の人間なのである。

……
つまり、人間と思惟する能力をもった魂とが同じである以上、われわれが思惟する時には、その思惟は魂の活動なのであるから、われわれが思惟していることになるのである。



知性(ヌース)

われわれは神を、知性的なものや真に有るものを超えているものとして所有しているのである。そしてわれわれは、この神から数えて第三の位置を占め、プラトンのことばによれば、上方の「不可分な魂」と「肉体の領域にある分割可能な魂」とから成っているのであるが、後者は次のような理由で、すなわち「魂は実際には一つであるけれども、……

……ちょうど一つの顔が多くの鏡に映って見えるように、自分の影像を肉体に与えて生命あるものをつくるのであるから、自己自身が諸肉体に現在しているように見える」という理由で、「肉体の領域にある分割可能な魂」と言われていると考えなければならないのである。

そして、(魂と肉体の)共有するもののなかにある感覚(能力)が、魂の第一の影像であり、次に、その感覚能力に魂の種類(エイドス)と称せられる他のあらゆる能力が次から次へと連なり、最後に生殖能力や生長力に至って、すなわち一般に製作する魂(6)とは別のものを産出する力(7)に至って終わるのであって、その際、製作する魂自体は、産出されるものの方を向いているのである。

 (6)宇宙霊の影としてのピュシスのこと
 (7)ピュシスのこと。



 それゆえ、われわれのあの上位の魂は、その本性において、人が行ったり、こうむったりする劣悪な事柄の責めから解放されていることになるであろう。


そして、偽りの思考と言われているものは、実際には想念(パンタシアー)なのであって、魂の思考能力の判定を待つことはしていないのである。

 だが、これに大して、知性の方は、対象に触れたか触れなかったかの、いずれかである。したがって、過ちを犯すことはないのである。

12
……
 だが、生成は、どのようにして行われるのであろうか。それは、すでに述べられたとおり、魂の下降によって起こるのであって、魂が下に傾いている時に、その魂から下降する別種の魂が生じるのである。(5)

 (5)……別種の魂すなわちピュシスの生成に関係があるのは、真の人間としてのわれわれの魂ではなく、宇宙霊である。しかし宇宙霊は直接に素材界に下降することはない。宇宙霊の影としてのピュシスが素材界に下降するのである。



(めも)
思いなし(ドクサ)
情念(パテー)


▽2 徳について



 この世には数多くの劣悪なものがあって、われわれの住むこの場所をさまよっている。これはどうしても必然なことであるし、魂はその劣悪なものから逃れようとしているのであるから、われわれはこの世(つまり感性界)から(あの世・知性界へと)逃れるようにしなければならない。(1)

 (1)プラトン『テアイテトス』参照……

 では、その「世を逃れる」というのは、どういうことだろうか。
 プラトンのことばにしたがえば、それは「神に似る」ということである。



つまり、これらの徳は、(ちょうど材料をはかる尺度のように)素材としての魂に適度さを与える尺度としての働きをする以上、それ自体がまた限度を与えられているわけだから、あの世界の尺度に似ており、あの世界の最善なるものの痕跡をもっているのである。


魂が劣悪なものとなるのは、肉体とすっかり混じり合ってしまって、肉体と経験をともにするものとなり、肉体と意見をまったく同じにすることによるのだから、(これと反対に)肉体と意見を同じくせず、ただ自分だけで活動し──これが知性を働かせることであり思慮深きことであって──肉体と経験をともにせず──これが節度のあることであり──肉体から離れるのを恐れもせず──これが勇気のあることであって──何の反対も受けずに理性(ロゴス)や知性(ヌース)が指導権を握っているならば──これが正義であるが──その魂は善い魂で、有徳な魂であることになるだろう。だから、魂が知性を働かせ、そうすることによって情念を受けないようになっている状態を、もし人が神への類似と呼ぶなら、まちがいではないだろう。なぜなら、その神的なものも清浄で、その活動はこれを模倣するものが思慮あるものとなるような活動だからである。


状態というものは魂のものなのであって、神的なものはどんな状態にもないのである。それに魂の知性活動は(神的なもののそれとは)別なのである。つまり、あの世界の神的なもののうちの或るものは(4)、(魂とは)ちがった知性活動をし、別の或るものは(5)まったく知性活動をしもしないのである。

 (4)ヌースのこと
 (5)一者のこと


なぜなら、口外されたことばが魂のなかのことばの模倣であるように、魂のなかのことばも神的なもののなかのことばの模倣だからである。


だから、徳は魂のものなのであって、知性も知性のかなたにあるものも、徳をもってはにないのである。




 するとわれわれは、浄化の後に残されるものを善のようなものと呼べばよいのだろうか。
 そうなのだ。つまり、魂はほんとうの意味での善のうちにとどまるには、十分ではないのである。なぜなら、魂はもともと善と悪の両方に向かう傾向を持っているからである。だから、自分と同族のものと交わることが魂の善で、反対のものと交わることが悪なのである。

 (註)自分と同族のもの──知性、反対のもの──肉体(物体)

それゆえ、自分を浄化してから交わらなければならないことになるが、交わるためには、その前にまず(知性の方に)向きを変える必要があるのである。
 では、魂は自分を浄化した後で向きを変えるのだろうか。
 いや、浄化し終えた時には、すでに向きを変えているのである。
 してみると、魂の徳とはこの向きを変えることなのだろうか。
 いや、むしろ、この転向によって魂に生じるものが徳なのである。
 するとそれは何だろうか。
 それは魂の観る働き(テアー)で、ちょうど視覚が見られるものをめぐって活動しているように、魂のなかに刻印されて活動している観られるものの印影である。
 すると、魂は(浄化されるまでは)それらをもっていなかったし、思い出しもしないのだろうか。
 それらは(魂のなかで)活動することもなく、(知性からの)光も与えられずに(ただ漠然と)保存されているにすぎなかったが、とにかく魂はそれらをもってはいたのである。そこで魂は、光を受けることによってそれらが自分のなかにあることを知ることができるように、光を与えるものに向かって進んでいかなければならない。それに魂がもっていたのは〈観られるものそのもの〉ではなくて、その印影だったのである。だから魂は、印影をその本体つまり真なるものに適合させなければならないのである。
 
諸々の知識でさえ、われわれがそれらにしたがって活動することをまったくしなければ、われわれにとって縁のないものとなってしまうのだから、知性のばあいはなおさらそうなのである。




▽3ディアレクティケーについて




 どのような技術、方法、営みが、われわれの進むべき上方の世界へと、われわれを導くのであろうか。われわれの行かねばならないところ、それは善であり、第一原理(1)である。

 (1)一者のこと

 だが、上方の世界へ導かれるにふさわしい人とは、どのような人でなければならないのだろうか。

 たしかに、「方法の世界に導かれるべき人」とは、「その生まれにおいて知を愛し求める人、美しい音色を好む人、そして愛に生きる人」でなければならないのである。




だが、すでに述べられた人びとにも(知を愛し求める人と同じように)授ける必要のあるディアレクティケーとは、何であろうか。
 それは、それぞれのものについて、「そのそれぞれのものが何であり、いかなる点で他と異なっているのか、そして共通点は何であるのか」をことばでもってあらわすことのできるたくみ(ヘクシス)である。つまりそれは、「それぞれのものがいかなる種類に属し、その種類のどこに位置を占めているのか、それは〈まさにそれであるところのもの〉であるのか、そして存在(タ・オンタ)はどれほどあり、また存在と異なるものとしての非存在(タ・メー・オンタ)はどれほどあるのか」を言うことのできるたくみなのである。
 それはまた善なるものと善ならざるものや、善なるものの部類に属するものとその反対のものの部類に属するものについて、また「永遠なるものとは何か、永遠ならざるものとは何か」など、これらすべての問題について、むろん、思いなしによってではなく、知識によって問答しながら、吟味するのである。そしてそれは、感性的なもののまわりをさまようことをやめて知性界に居を定め、そこで虚偽を退けて、プラトンの言う「真理の野」で魂を養いながら、自らのなすべきことをなすのである。




 しかしながら、この(ディアレクティケーという)知識は、自らの諸原理をどこから得るのであろうか。
 知性(ヌース)が明確な諸原理を、これを受け取ることのできる魂に与えるのである。そして次に、この(ディアレクティケーという)知識が、それら諸原理につづくものを結び会わせたり編み合わせたり分割したりしながら、完全なる知性に到達するのである。というのも、この知識はプラトンの言うように、「知性(ヌース)と思慮(プロネーシス)とのもっとも純粋な部分」だからである。

 ではどうであろうか。哲学は、もっとも貴重なものであhないのであろうか。それとも哲学とディアレクティケーは、同じものなのであろうか。
 いや、ディアレクティケーは、哲学の貴重な部分なのである。


▽4 幸福について

▽5 幸福は時間によって増大するか

(ぱらぱら、とばし読み
 これは論文を集めたものだから、
 最初から順番通りに読まないとあとでつまるってこともないし)


▽6美について


 美はおもに視覚の対象となるものであるが、ことばを組み合わせたものを聞いたり、いろいろな分野の音楽を聴いたりする時には、聴覚の対象ともなる。というのは、メロディやリズムも美しいからである。


▽7第一の善とその他の善について


すなわち、この「源」として〈善〉は、活動によって善であるのでもなければ直知の働きによって善であるのでもなく、ただただ自己自身にとどまっていること、そのことのゆえに善なのである。

なぜなら、〈善〉をそのようなものとみなすことによってのみ、「すべてがそれを欲し求めるもの」という(アリストテレスなどの善に対する)定義も、真となるからである。


してみると、魂のないものは、(〈善〉の)影像にあずかっていることになる。なぜなら、魂のないものが分有しているのは、存在や一の影であり、(魂のないものの分有する)形相も、童謡に影だからである。
 だが、これに対して、魂の生すなわち知性につづく第一位の魂の生は、真実により近いところに位置を占め、それは知性を通して〈善の形相〉をもつのである。

だが、これに対して、死は(魂にとって)もっと善きものなのである。いや、むしろ、われわれは、「肉体のなかにある生は、それ自体が劣悪なものであるけれども、魂が〈合成されたもの〉の生をおくらずに、この世においてであっても、自己自身を肉体から分離する場合には、その魂は徳ゆえに善きものとなる」と言うべきであろう。



▽8悪とは何か、そしてどこから生ずるのか




なぜなら、より善いものはより悪いものよりも先にあって形相であるが、より悪いものは形相ではなく、むしろ(形相の)欠如だからである。(4)

 (4)プロティノスの思想体系は、一者→ヌース→魂……→自然(ピュシス)→素材、という一本の柱で支えられている。そしてヌースは一者より光(=ロゴス=エイドス=善性)を与えられることによって、はじめてヌースとしての存在を得るのであって……


けれども、どうして善と悪が反対なのかということも、調べなければならないだろう。おそらく一方は始原であるが他方は終極であるとか、一方は形相であるが他方は欠如であるということが、その理由となっているのだろうが……。しかし、この問題は、後で検討することにしよう。
(……侭)




 それで、今のところは、現在の論究に適した範囲内で、善の本性は何であるかを離していくことにしよう。
 善とは、万物がそれに依存するもの、全存在がそれを始原としてもち、それを必要としているので、欲し求めるものであるが、(それ自身は)何も必要としないもの、それ自身で十分事足りているもの、何も欠けたところのないもの、万物に適度と限度を与えるもの、知性、実在、魂、生命、知的活動の源となっているものである。

……前提から導きだされるものによって有るものを考察しようとするのである。
 まことに、あの世界の知性はそのような知性ではなく、すべてをもち、すべてであり、自己自身と住むことによってすべてと住み、すべてを(一般的な意味で)もっているのではないけれども、もっているのである。

 そして、知性は善の最初の活動であり、第一の実在である。(1)

 (1)善なるものとしての一者(ト・ヘン)は、別に「万有を作りだす力(デュナミス)」とも言われるが、その一者のデュナミスの最初の発現(エネルゲイアつまり活動)が知性である。

しかし善は静止していても、知性の方は、いわば善のまわりで生きているかのようにして、それを囲み、活動しているのである。そして魂の方は、外側から知性を囲み、輪になって躍りながら知性を眺め、その内面深くに目をそそぐことによって、それをとおして神を観るのである。

すなわち、悪は適度との関係においては、いわば適度のなさであり、限度との関係においては、限度のなさで、形の付与との関係においては、形のなさであり、自足性との関係においては、たえざる不足であって、永久に無規定のもので、決して静止せず、完全に受動的で、満たされることのない、まったくの貧しさである、という考えに到達することができるからである。

だから、〈姿(スケーマ)・形(エイドス)・恰好(モルペー)や尺度や限度の基にあって、自分の本性とは縁のないもので飾られてはいるが、自分では少しも善いものをもっていないもの、真実在にくらべれば影にすぎないもの〉がなければならないことになるのであって、実にこれこそ悪の実体であり──もし悪にも、なんらかの実体がありうるとすればのことであるが──われわれの議論はこれを見つけ出して、第一義的・即自的な悪であるとするのである。



 だが、物体の類は、素材を分有するものである限り、第一義的な悪ではないけれども、悪しきものではあるだろう。というのも、物体がもっているのは真実の形相ではなくて、形相のようなものにすぎないのであるし、また、物体は生命を欠き、自分たちの不規則な動きによってたがいに滅ぼしあい、魂に固有な活動を妨げ、たえず流動することによって真実在から逃れているからである。



このように考えても、悪がなければならないということは、明らかだろう。

14

しかし、魂の力はいろいろで、魂は始めと中間と終りをもっているのである。



▽9自殺について

(短い)

 君は、君の魂が肉体から出ていかないように、自分で自分の魂を肉体から外に連れだすようなことをしてはならない。そのようにして出ていくばあいには、君の魂はなんとか出ていくことができるようにと、なにか(よくないもの)を携えて出ていくであろうし、そのばあいの「出ていくこと」は、「(或る場所から)他の場所へ歩を移すこと」と、なんら変わりはないであろう。



というかんじで読書中ー
メモとると後で役に立つけど読書スピードは落ちるー

でもプロティノス、思っていたより面白いヽ(´ー`)ノ
最後まで読めるといいなあ・・・

でもメモをとりながら(ていうかテキスト入力)だと
やっぱりその作業に疲れる

ある程度は個人的興味や気分にもとづいて飛ばしてるけど
それでも、メモしたいところまで読んでメモする気力がおきなかったら
そこでとまるし・・・

でも流し読みして最後まで読み終わっても、達成感以外残らないし
記憶力悪いから

だから途中まででも、記録したいところは記録していって
あきたらやめるほうがまだましー
それなら、そのうちまた気が向いて続きを読みたくなるかも知れなくて
その場合には、途中まで記録したことが役に立つし



長くなったので②へ続くー

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