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2017-05

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『中世の秋』(ホイジンガ)②~実念論的?

実念論は、唯名論と対を為す考え方かな

哲学史的な用語としてはこんなかんじで
ウィキペディアで確認ー

▼普遍論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89

普遍論争(ふへんろんそう)とは、スコラ哲学において「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われた哲学上・神学上の論争の一つである。これと内容的に同じ議論が、古代から続いており、近代哲学や現代の哲学でも形を変えているか問題となっている。「普遍概念」をめぐる論争として、中世の論争を特にこの名で呼ぶ。

概説

[編集] 普遍概念
普遍とは個物(レース)に対する普遍のことで、もう少し詳しく表現すると、「類の概念」あるいは「普遍概念」のことである。個物とは中世において自明的に存在すると考えられた個別的な事物のことで、例えば、フィレンツェに住む商人のミケーレ氏とか、そのミケーレ氏の邸で飼っている犬のフェリスとか、ミケーレ氏の邸内に生えている柏の大樹などである。

ミケーレ氏は、「人間の類」に属し、犬のフェリスは「犬の類」に属し、柏の巨木は「柏の樹の類」に属している。これらの「類の概念」は「形相(フォルマ)」であると中世哲学では考えられた。そこで、これらの類の概念、つまり「人間の形相」「犬の形相」「柏の樹の形相」などが、「普遍概念」とも呼ばれた。

個物が存在することは疑いがないが、では類の概念、つまり普遍概念は存在するのかどうか。具体的なミケーレ氏という人間とは別に「人間の普遍概念」が存在するのか、同様に、犬のフェリスとは別に「犬の普遍概念」が存在するのか、また「柏の樹の普遍概念」が存在するのか。この問題は、古代においても、事物のイデアー存在と、個別存在の違いということで問題になっていたが、スコラ哲学では、更に精緻に議論や考察が行われた。


[編集] 実在論と唯名論

アンセルムスなどの実在論者は、普遍概念は存在するとし、何ものかが明らかでない個物の基体存在物に、例えば「人間」の形相が付与されることで、すなわち「人間の普遍概念」が基体存在に加わることで、簡単に云えば、「人間の具体的存在」すなわち「個物としての人間」が成立するとした。このように、類の概念、すなわち普遍概念が実在するとする考えを、「実念論」または「実在論 Realismus」と呼ぶ。

実在論者は新プラトン的立場に立ちイデアが事物より先に立ちそれ自身において存する点に鑑みアダムによって堕落しキリストに救済されることが成り立つためには人類という普遍者が存在しそれが人間の本質として前提されなければならないと考えた。そうでないとするとアダムの原罪もキリストの受難も個々の事実に過ぎず 人類全体の救済という普遍的な意味を持ち得ないからである。


これに対し、オッカムのウィリアムなどの唯名論者は、人間の類の概念、すなわち「人間の普遍概念」は形相的に実在するのではなく、古代のアリストテレスが考えたように、実在するのは具体的な個々の個物であるとした。つまり、人間のミケーレや犬のフェリスや柏の巨木が、個物(レース)として実在しているのである。このとき、「普遍概念」は、類を示す「名前(nomen)」であり、名前は「言葉」として存在するが、類の概念、すなわち普遍概念としての形相的存在は実在しないとした。極端な唯名論を唱えたロスケリヌスは、普遍は音声の風(flatus vocis)にすぎないとしている。このような考えを「唯名論 Nominalisme 」と云う。 アベラールの見解では普遍はまず事物よりも神のうちに概念として存在し、その次に物自身のうちに共通な本質的規定として存在し、さらに物の後に人間の悟性のうちにその思惟の結果得られた概念として存在することになるとした。これはプラトンとアリストテレスの折衷的な解釈であった。 しかしこのような歩み寄りにもかかわらず論争は続いた。 事物、人間の普遍性を認めなければキリスト教の最も重要な教義と矛盾してしまうからである。

トマス・アクィナスは、実在論の立場から両者を調停して、普遍は神の知性においては「事物に先だって ante rem」存在し、世界の中においては「事物の中に in re 」存在し、そして人間の知性においては「事物の後に post rem 」存在するとしている。



▼スコラ学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%A9%E5%AD%A6

スコラ学はラテン語「Scolaticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で11世紀以降、主にキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問のスタイルのこと。このスコラ学の方法論にのっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。


▼唯名論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%90%8D%E8%AB%96

唯名論 (ゆいめいろん、Nominalism) とは、中世西欧の普遍論争における一方の立場である。スコラ哲学において、「人間」とか「イヌ」あるいは「薔薇」などは、類の概念として形相存在として実在するのかどうかという議論(普遍論争)があり、これに対し唯名論は、類の概念は実在しないと答えた。

唯名論の立場は、類の概念(普遍概念)は、名前として存在するのであり、実在するのは類の概念の形相(フォルマ)ではなく、具体的な個物(レース)、つまり個々の具体的な人間やイヌや薔薇であると考えた。これに対する考えが実念論(実在論)で、「薔薇」とか「ネコ」などの類の概念が形相として実在するとした。

西欧では、13世紀末以降に、理性が信仰から独立して行くのと並行して唯名論が優勢となる。フランシスコ会士であるオッカムなどは唯名論の立場をとった。

概念やカテゴリーなどは、主観が、個物からなる対象世界を任意に切り取って、そこに外的に付与したものであると考える点で、現代の相対論的な哲学につながっており、現代ではむしろ、外的物質世界に、内在的な形相として、概念やカテゴリーの客観的根拠が実在するという科学的実在論との対比が問題となる。


▼実在論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96

実在論(じつざいろん、Realism)とは、名辞・言葉に対応するものが、それ自体として実在しているという立場。対応するものが概念や観念の場合は観念実在論になり、物質や外界や客観の場合は、素朴実在論や科学的実在論になる。

観念実在論

中世哲学において、普遍論争の一方の立場となった。この意味のときは実念論とも訳す。「人間」や「イヌ」や「サル」という名辞にそれぞれ対応する概念的な普遍者『人間』『イヌ』『サル』が、その普遍に属する個物(個々の具体的なサル、イヌ、人間など)とは別に、それ自体として実在するという立場。

素朴実在論

認識や観念に対応する客観的なもの、外界が実在するという、一般的に人間が生活する上で前提している立場。

科学的実在論

科学的理論・認識が記述し、そうした理論に制約を課す独立した対象が存在するという考え。



というわけで、最初に「実念論」という単語がでてきたので確認ー

てことで、ここからはホイジンガ読書のφ(°°) メモ φ(。。) メモ φ(°°) メモ φ


『中世の秋』
ホイジンガ

目次

はげしい生活の基調
★美しい生活を求める願い
身分社会という考えかた
騎士の理念
恋する英雄の夢
騎士団と騎士誓約
★戦争と政治における騎士道理想の意義
愛の様式化
愛の作法
牧歌ふうの生のイメージ
★死のイメージ
すべて聖なるものをイメージにあらわすこと

13 信仰生活のさまざま
14 信仰の感受性と想像力
15 盛りを過ぎた象徴主義
16 神秘主義における想像力の敗退と実念論
★17 日常生活における思考の形態
18 生活のなかの芸術
19 美の感覚
20 絵と言葉
21 言葉と絵
22 新しい形式の到来


★は単に私が目を通して印とかついてるところというだけ



「日常生活における思考の形態」

p417

 中世人の日ごろのものの考えかたは、神学の思考様式と同じであった。スコラ哲学が実念論と呼んだ構造的観念論が、やはり、その基礎となっている。あらゆる想念を、ひとつひとつきりはなし、存在としてのかたちを与え、それらを集めて、階層的システムに組みたてる。


p418
 ラ・マルシュも、こういったことがらについて、ぎょうぎょうしい質問を読者に投げかけ、いかにその重大事の重大事たるゆえんが理にかなっているかを説明してみせている。たとえば、こうだ。なぜ、「果物係」が、「臘の職務」、すなわち照明の仕事をも担当しているのか。答えはこうだ。臘は、蜜蜂が花から吸い集める、その花は、果物をみのらせる、「だから、このことは、ただしく、かくはきめられたのである」、と。
 このラ・マルシュの説明のしかたにも、はっきり認められるように、ひとつひとつの職務に、それぞれ担当機関を設けようとする、まさに中世的とでもいうべき傾向は、事物の性質それぞれをひとつひとつの理念とみなし、それおれに自立性を与えようとするものの考え方のあらわれにほかならないのである。


 あらゆるものに、無生物にさえも名をつけるという慣行も、同じ光に照らして、これを理解すべきであろう。つまりは、プリミティヴな擬人観のあらわれなのだ。だから、現代においてさえも、多くの点でプリミティヴな生活態度への逆もどり現象を示す戦争生活にあって、大砲に名前がつけられるのである。

p419

 このような無生物の擬人的理解は、中世においては、はるかにはるかに徹底していたと考えなければならない。ものみなすべてが名づけられたのである、家や鐘はいうに及ばず、地下の牢獄さえも。




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