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2017-05

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『中世の秋』を読もうと思ったら~①きのうのばらはただその名のみ、

なんとなく、『中世の秋』を読もうと思いました
家にあったはずのを一生懸命探したけどみつからなかったので
しかたがないので図書館にいって借りてきました

そして借りてきたあと、家の『中世の秋』が発見されました・・・

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よくあること;;

ていうか発端は『薔薇の名前』の最後の詩は
ホイジンガの『中世の秋』に全部あるってウィキペディア様がかいてたからなんだけど

薔薇の名前についてこれ↓

▼薔薇の名前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%96%87%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D

[編集] 「薔薇の名前」とは何か

この小説の原題は、イタリア語で「Il Nome della Rosa」で、英訳すると「The Name of the Rose」である。薔薇(rosa)にも名前(nome)にも定冠詞が付いている。小説は、その最後が、/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ というラテン語の詩句で終わっている。これはモーレーのベルナールの説教詩の一行で、小説の最後の部分では、ベルナールの詩の句が幾度も引用されている。

ラテン語の詩句は、形式的に直訳すると、「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」というような意味であるが、ベルナール自身の詩のなかで象徴的な意味を持っており、更に小説のなかでも、多義的象徴的意味を持っている(この詩は、ヨハン・ホイジンガの『中世の秋』に引用されており、ベルナールの詩の全体がどういうものかは、『中世の秋』の翻訳で知ることができる)。


[編集] 「薔薇の名前」と普遍論争

エーコの小説のなかでは述べられていないが、フランシスコ会と教皇庁の争いは、フランシスコ会総長チェゼーナのミケーレ他幹部が、論争に決着を付けるためアヴィニョンを訪れるが、教皇庁側の対応に疑問を抱いた彼らが、一夜にしてアヴィニョンを逐電し、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国領)へと逃れるに及んで最終的に決裂した。このとき、逃走した者のなかには、当時の普遍論争において、唯名論の側の立場に立つ筆頭の論客として知られた、オッカムのウィリアムも含まれていた(この後、教皇庁はミケーレを解任し、フランシスコ会に新しい総長を選出させ、結果、二人の総長が並立するという事態になる)。

オッカムのウィリアムは、論理思考における「オッカムの剃刀」で良く知られているように、近代合理的な思考、経験的科学的な認識論を指向していた。従って、オッカムのウィリアムが、またバスカヴィルのウィリアムのモデルだとも言える。

普遍論争とは中世に存在した、実在するのは何かという哲学議論で、簡単には、事物(レース)について、その類観念つまり類のエイドス(形相)が実在しているというのが、「実念論」の立場で、これに対し、オッカムのウィリアム等「唯名論」の立場では、実在するのは個々の事物(レース)であって、類の普遍観念つまりエイドスは、「名(nomen)」に過ぎないという考えであった。

この事物の類観念と個々の事物の関係を、「薔薇(rosa)」という事物または類観念で考えると、薔薇という類の普遍観念が実在するのか、または普遍観念つまりエイドスは「名前」に過ぎず、実在するのは個々の薔薇であるのか、ということになる。オッカムは後者の立場である。

「その薔薇のその名前(Il Nome della Rosa)」とは、「その名前」が普遍観念で実在か、「その薔薇」こそが具体的事物で実在で、「その名前」は形式に過ぎないのか。バスカヴィルのウィリアムは唯名論の立場で、後者である。しかしメルクのアドソは晩年に至って、師の教えに反し、「その名前」が実在である、つまり実念論の立場に転向した趣旨が小説の「最後の頁」で示唆されている。

/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ という小説最後のラテン語の詩句が、ここで中世の普遍論争の文脈に置かれることになる。また、時代錯誤であるが、作者エーコは、バスカヴィルのウィリアムに20世紀の分析哲学の思想に類似した内容を語らせており、ヴィトゲンシュタインの言葉の引用に似た表現が出てくる。分析哲学は、中世の普遍論争の問題を20世紀において継承した思想である。

エーコの小説の「枠」を外した事実上の「始まり」の部分は、「初めに(原初に)、言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書』1章1節)であり、「最後」は、筆写室に手稿を残してアドソが部屋を後にするという説明であり、そして、最後の最後に、上のラテン語の詩句が置かれている。「原初の薔薇(rosa pristina)」とは何で、「裸の名前(nomina nuda)」とは何か、作品は、言葉と実在の関係をめぐり、記号と世界の秩序の関係をめぐり、壮大な「薔薇の名前」の物語を築いている。


というわけで、まずはベルナールの詩を探す作業ー
といったところで、みつからないー
ベルナールの説教詩ってことは、宗教っぽいところかなあ?

あと目次はこんな

『中世の秋』
ホイジンガ

目次

はげしい生活の基調
★美しい生活を求める願い
身分社会という考えかた
騎士の理念
恋する英雄の夢
騎士団と騎士誓約
★戦争と政治における騎士道理想の意義
愛の様式化
愛の作法
牧歌ふうの生のイメージ
★死のイメージ
すべて聖なるものをイメージにあらわすこと

13 信仰生活のさまざま
14 信仰の感受性と想像力
15 盛りを過ぎた象徴主義
16 神秘主義における想像力の敗退と実念論
★17 日常生活における思考の形態
18 生活のなかの芸術
19 美の感覚
20 絵と言葉
21 言葉と絵
22 新しい形式の到来


ぱらぱら読書の果にみつけたーヽ(゜∀゜)ノ

あと、ぱらぱら読書で面白かったのは、
「戦争と政治における騎士道理想の意義」かな

で、実際読んでるのは上にあるアマゾンのじゃなくて
『世界の名著67ホイジンガ』なんだけど

「死のイメージ」(p270)にあったー

メメントモリとかそんな趣味っぽいかも

せっかくなので引用してみる

バビロンの栄華は、いまいずこにありや、かの恐るべき
ネブカドネザル、力みてるダリウス、また、かのキルスは。
力もて押されてまわる車輪のごと、かれらは過ぎゆきぬ
名は残り、たしかに知られるも、かれらは腐りはてぬ。
今は昔ぞ、カエサルの議場、また凱旋。カエサル、汝(なれ)も失せにき。
あらあらしくも世界に力ふるいたる御身なりしが。
………………
いまはいずこ、マリウス、また廉直の士ファブリキウスは。
パウルスのけだかき死、その称うべき軍功(いさお)は。
デモステネスの神の声、またキケロの天よりの声は。
市民へのカトーの祝福、また、逆徒への怒りは。
レグルス、いまいずこに、また、ロムルスは、レムルスは。
きのうのばらはただその名のみ、むなしきその名をわれらは手にする。



作者はウィキペディアはこんな↓

▼Bernard of Cluny
From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Bernard_of_Cluny


世界史的になつかしい名前とか、知らない名前とかがいっぱいー

「無常」を主題にしているとか

この文脈でいうと、最後の、薔薇の名前にも引用されている部分の「名」は
「名は残り、たしかに知られるも、かれらは腐りはてぬ。」
の「名」と同じような意味合いなのかも

ていうか、作者(日本語版ウィキペディアなかった)のウィキペディア記事を
英語版で探してたついでに、薔薇の名前の英語版もみたら
こんなことかいてあった

Perhaps this is a deliberate mis-translation. This quote has also been translated as "Yesterday's Rome stands only in name, we hold only empty names".This line is a verse by twelfth century monk Bernard of Cluny (also known as Bernard of Morlaix). Medieval manuscripts of this line are not in agreement; Eco quotes one Medieval variant verbatim,[4] but Eco was not aware at the time of the text more commonly printed in modern editions, in which the reference is to Rome (Roma), not to a rose (rosa). [5] The alternative text, with its context, runs: Nunc ubi Regulus aut ubi Romulus aut ubi Remus? / Stat Roma pristina nomine, nomina nuda tenemus. This translates as "Now where is Regulus, or Romulus, or Remus? / Yesterday's Rome stands only in name, we hold empty names".


まあ、前の方の流れからいうと、レムルスとかはローマ建国の双子だし
バラは象徴でどこでも使いやすいとはいえ
ローマの方が文脈的にいえば、とてもまともかも
似てるし・・・



②↓
http://kuzukiria.blog114.fc2.com/blog-entry-118.html

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