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2017-05

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『この人を見よ』(ニーチェ)~「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」


年末、お掃除を少ししたらくたびれた
本は本棚にあるのだけは整理整頓もされているけれど
それ以外は段ボールにいれてクローゼットで
これはもうもっているというかおいてあるだけかも・・・

司書つき図書館で、ドラえもんのポケットみたいなのがほしいなあ・・・

本はまだましで、CD(DVDも;;)は
もう並べて、というか積んであるだけー
しかもケースと中身さえ違う;;

CDをさっき注文したけど、これはもってないはずだけど
どれをもってるかもってないか、わからなくなってたり・・・

というわけで、年末は読書でもー


目次が楽しいニーチェの本・・・

『この人を見よ』
ニーチェ
(岩波文庫)

この人を見よ (岩波文庫)この人を見よ (岩波文庫)
(1969/01)
ニーチェ

商品詳細を見る


目次

序言
なぜわたしはこんなに賢明なのか
なぜわたしはこんなに利発なのか
なぜわたしはこんなによい本を書くのか
 悲劇の誕生
 ……
なぜわたしは一個の運命であるのか



タイトルが天才的すぎなのでインパクトあるかも
ここまでインパクトあるタイトルはなかったなあ
他に、どんなのがあるかなあ?

この人を見よ
  ひとはいかにして本来のおのれになるのか



サブタイトルまでいれるとこんなかんじ

とりあえずぱらぱら拾い読みしてみることにー


(凡例)
 ……は侭。自分のリーダーは・・・に


▼序言

p10

・・・
──一個の精神が、どれだけ真実に耐えるか、どれだけ真実を敢行するか? これが、わたしには、ますます本来の価値基準になってきた。誤謬(──理想への信仰──)を生むのは盲目ではない、臆病である……

・・・
世人はいままで、原則的にはいつも真実だけを禁じてきたのだから。



▼なぜわたしはこんなに賢明なのか

p17

  1

 わたしという存在の幸福、おそらくはその無比な点は、わたしの負うている宿命から来ている。そのことを謎めいた形式で言い現すなら、わたしは、わたしの父としてはすでに死んでおり、わたしの母としては生きつづけていて、年を重ねているのである。

p22

出来のよい人間はわれわれに快感を与える。出来のよい人間は、堅くもあるが、同時に弾力性をもって、よいにおいのする木で彫られているということ、これがその目安である。彼が美味と感じるのは、彼の健康に役立つものだけである。彼の満足、彼の食欲は、健康に役立つ限度が踏み超えられると消失する。傷を受けると、彼はその治癒の薬を感じ当てる。彼は都合のわるい偶然事をおのれの利益になるように利用する。

・・・
つまり、わたしがいま述べてきたのは、わたし自身のことにほかならないのだ。


▼なぜわたしはこんなに利発なのか

p41

  1

 ──なぜわたしは、若干のことを人並以上に知っているのか? なぜわたしは、総じてこのように利発なのか? わたしは問題でないような問題について思いをめぐらしたことは、かつてない──わたしは自分を浪費しないのだ。

p47

風土が新陳代謝に及ぼす影響、その阻害と促進の力は非常に大きいので、いったん土地と気候の選択を誤った者は、おのれの使命に疎遠になるばかりか、およそそれと別れてしまいかねない。つまり使命と顔を合わせなくなるのだ。

p48
新陳代謝のテンポは、精神の足が敏捷か遅鈍かに正確に比例している。「精神」そのものが、実はこの新陳代謝の一種にほかならないのだ。比べあわせてみるがいい、才気ある人々が現に住んでおり、過去にも住んでいたところ、機知と洗練度と悪意とが幸福を得るための要件をなしていたようなところ、転載がほとんど必然的に住みついたようなあれこれの土地を。どれもみな、空気がすばらしく乾燥している土地だ。パリ、プロヴァンス、フィレンツェ、イェルサレム、アテナイ──これらの地名は、あることを証明している。すなわち、天才が存在しうるための条件は、乾燥した空気、澄んだ空──すなわち活溌な新陳代謝、巨大とさえいえる多量の力をたえず獲得しうる可能性をもつことだ。

p56
──世の人はハムレットを理解しているだろうか? 狂気の原因は、疑惑ではなくて、確かさを確保したいということなのだ……しかし、そういう感情をもつことができるためには、ひとは深くなければならない。深淵でなければならない。哲学者でなければならない。……われわれはみな、真実に当面することを恐れている……そして、あえて告白すれば、わたしはベーコン卿こそ、この不気味きわまる文学の創始者であり、自虐者であることを、本能的に確信している。

p64
 これらのすべて──栄養の選択、土地と気候の選択、休養の選択──について命令を与えるのは、自己保存本能であるが、それがまぎれもなくはっきりと現れるのは、自己防衛本能としてである。多くを見ず、多くを聞かず、多くを身辺に近づけぬこと──これが機略の第一であって、われわれが偶然的存在ではなくて一個の必然であることの何よりの証拠である。この自己防衛本能を通りのよい言葉でいえば、趣味である。この趣味の支配権は、然りということが「自己喪失」を意味するような場合に否と言えと命ずるだけではなく、否を言うことをできるだけ少なくすることを命ずるのである。

p65
 もう一つ別な自己防衛の機略は、できるだけ稀にしか反応しないこと、自分の「自由」、自分のイニシアティヴをいわば取りはずされ、単なる反応薬になりさがるという憂目に会いそうな状況や関係から身を引くことだ。

p73
……人間の偉大さを言いあらわすためのわたしの慣用の言葉は、運命愛(アモール・ファティ)である。何ごとも、それがいまあるあり方とは違ったあり方であれと思わぬこと、未来に対しても、過去に対しても、永遠全体にわたってけっして。



▼なぜわたしはこんなによい本を書くのか

p75

  1

 わたしはわたし、わたしの著書はわたしの著書、両者は別物である。

p78
──結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。

p85
 ついでにわたしの文体の技法について、ひとこと一般的なことを言っておこう。パトスをはらんでいるひとつの状態、ひとつの内的緊張を、記号の連鎖、ならびにそれらの記号のテンポによって伝達すること──これが、およそ文体の意味である。

よい文体とは、ひとつの内的状態の真の姿を伝えるものであり、記号、記号のテンポ、身ぶり──複雑な構造をもつ文章の法則はすべて身ぶりの技術だ──の行使をやりそこねない文体である。



この本についての解説もよんでみると・・・

p202

 ニーチェのこの自伝『この人を見よ』が書かれたのは、一八八八年の秋、彼が四十四歳のときである。この年が彼の正常な精神活動の最後の一年であった。


というかんじ・・・
ニーチェは晩年には精神異常だったけど、その手前に書かれたものだとか

引用したのは、なんとなく気になったとか気に入ったとか用があるとか
そんなとこだけ・・・

そういう所以外、書き写したってどうせ、私にとっては実用的じゃなし
ってことで


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